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「最初の記憶 ~ 2歳の頃を振り返って」前編

 12月のある日、トラックの助手席に乗り込む若き父の姿を、他の家族とともに道路の片すみから見ていた。
 北向きで駐車してあったトラックは、南へと向きを変え、未舗装の道路の上を砂埃を舞い上げて遠ざかり、交差点を右折してあっという間に視界から姿を消した。
 まだ幼かった私は、父が自分の知らないどこか遠い所へ行ってしまったのだと思い込み、声をあげて泣いた。私の背後に立っていた母が両の肩にそっと手を添え、自分たちもこのあと同じ所へと向かうから大丈夫だと、耳元でささやきなだめてくれた。
 晴れ渡った空の青さが目に焼き付いている。鹿児島市鷹師町から常盤町へと引っ越した日の一場面だ。

 そのとき私は2歳と9か月だった。高校教師だった両親が、冬休み期間中にを選んのだと、母から聞いたことがある。
 それ以前に、初めて経験した加治屋町から鷹師町への引っ越しについては、まだ生後半年ほどだったため、全く覚えていない。

 鷹師町の小さな借家、そこに引っ越してきた当初は、両親と私の3人住まいだったが、その後妹が誕生し、さらには家庭内の事情で、中学生だった母の妹(私の叔母)も共に住むようになっていた。
 当時私が「じゅんこねえちゃん」と呼んでいた叔母が同居するようになった背景には、太平洋戦争の終戦が絡んでいる。
 母方の家族は旧満州からの引き上げを経験している。国境を越える際、伝染病の予防注射を打たなければならず、そのとき体調の良くなかった祖母は、それが原因で命を落としている。向こうで警察官をしていた祖父の内地での再就職はままならず、定職を得ることが困難だった。
 鷹師町に住んでいた頃、三女だった母の、下二人の弟妹は、まだ未成年だったため、結婚していた次女と三女がそれぞれ一人づつの生活の面倒を引き受けることになった。
 じゅんこねえちゃんが我が家にやってきたのは、妹が生まれた翌年の昭和33年。14歳を迎える年だった。

 平田橋の西側交差点からほど近い位置にあり、現在の様子からは想像し難いが、昭和30年代当時、まだ交通量も少なく、平屋ばかりが立ち並ぶ静かな町で、街灯も設置されていなかったため、夜になると闇に沈み、中学生だった叔母などは、平田橋を渡るのも怖くて、いつも家に向かって走っていたと聞いたことがある。近くの国道3号線から、ときおり通り過ぎる路面電車鹿児島市電伊敷線(昭和60年に廃線)の走行音が聞こえてきた。夜のしじまの中で、孤独をまき散らしているかのように淋しげに聞こえたものだ。

 鷹師町での記憶が、他にもいくつか残ってはいるが、2歳児の未発達な認知力で捕らえた、小さなスナップ写真のような「記憶のカケラ」的なものがほとんどだ。

 たとえば、南向きの窓に、よく布団をかけて干してあったこと。日差しを浴びた暖かい布団の感触が好きだったが、せっかく干してるんだから触れちゃダメだと怒られた。

 庭から路上へと降りる石段の上に腰かけ、頬杖をついて日向ぼっこしながら通りを眺めることが好きだった。立ち上がって、そのまま家に上がろうとするところを母に見つかると、いつも小言を言いながら尻に付いた砂や小石を叩き落される。それが煩わしくて、いつも逃げ出したくなった。
 のちに聞いたことだが、当時の私は、実際によく石段に腰かけ、舞い上がる砂埃で頭が白くなっているというのに、払おうともせずに頬杖をついていたという。

 「ロバのパン」という屋号のパン屋が、その名のとおり実際にロバにパンの屋台を引かせて売りに来ていた。子どもに人気のそのパン屋が来るのをいつも楽しみにしていた。石段によく腰かけていたのは、このパン屋を心待ちにしていたという理由もあったかも知れない。
 日当たりの良い場所で、頬杖をついて日向ぼっこすることの心地良さが強く印象に残っている。

 「あまり遠くへ行ってはダメ」と母から言われ、その言いつけを忠実に守っていた。交差点の角から先に行くと、ヒトサライが来てさらっていくから一人で行って良いのはそこまでと限定されていた。もちろん、実際にその姿を見たことはなかったが、どこかに潜んでいるはずの人さらいが怖くて、交差点を曲がってその先まで行こうなどという気が全く起こらなかった。
 ヒトサライ・・・、いつも話に聞くその得体の知れない怖いおじさんの存在には、いつも底知れぬ恐怖を感じていた。

 いつどこからやってくるのか・・・、

 あの家の屋根の向こう側だろうか・・・、

 それとももっと遠い建物の陰に潜んでいるのだろうか・・・、

 もし見つけたら、近づいてくる前に家に逃げ込まなくちゃ・・・と、まるで火の見櫓の見張り番のように周囲を見渡したこともあった。

 いつも心待ちにしていたロバのパン屋さんとは顏馴染みになっていた。少しやせぎすで頬骨の出た浅黒い顔のおじさんで、石段に腰かけていると、必ずこちらを向き、目が合うと笑顔を浮かべて馬車を止めてくれた。待ってくれている間に、ちょこちょこと家まで走って母を呼んでくる。これがお約束のお楽しみパターンとなっていた。

 その「ロバのパン」で、ちょっと怖い思いをしたことがあった。
 いつものように頬杖をついて石段に腰かけていると、ロバのパン屋さんが陽気なテーマ曲と共にやってきた。
 おじちゃんのいつもの笑顔を待っていると、その日はどういうわけだかいつもと違う知らない人が手綱を取っていた。

 ― あれ? ー

 知らない顔のおじさんを見た途端、嫌な気分になった。

 ― この人、ニセモノだ ー

 幼かった自分にとって、「ロバのおじさん」は、となりのおじさんと同じように固有の人だった。それなのに、違う人がよそよそしい顔で御者台に乗っている。

 ― どうして? ―

 ロバのおじちゃんの次に好きだったのは、最近はとんと見かけなくなったチンドン屋。カラフルな服を着て楽しそうに楽器を奏でる姿に心惹かれていた。 
 そのチンドン屋にも、嫌な思いをした瞬間があった。一行の中で一番のお気に入りだったのがピエロ。ところが、近づいてきたその人の姿をそばから見ると、厚塗りメイクした顔の奥に、疲れたような表情をした知らないおじちゃんの顔が透けて見えた。

 ― 気持ちワルっ! ―

 他にいた変なおじちゃんが、新上橋しんかんばしそばの鉄橋の下に住んでいたホームレス。ひげぼうぼうの年寄りだと思っていたが、髪の色は黒かったので思っていたよりは若かったのかもしれない。なんだか怖かったので、近寄ってしっかりと見たことなんてない。
 リヤカー一台を持っていて、昼間はそれでゴミを集めて回っていた。じゅんこねえちゃんも、このおじさんのことを怖がって、そばを通るときは、いつも足早に通り抜けたと言っていた。

 このほかに、現実だか夢だかわからないような、普通に考えるとあるはずのないような記憶のカケラが、意識の片すみに散らばっている。

― 自分はヒトサライにさらわれたことがある。―

 そんな事件性のある出来事など、実際には起こっていない。それなのに、背後から抱きかかえられ、激しい息づかいと低い唸り声を背後に感じながら、視界が上下左右に乱れたという断片的な記憶が残っている。これは果たして、夢なのか現実なのか・・・。

 初めて見る積雪の光景には驚いた。
 朝起きて、窓から見る外の様子がいつもと全く違う。白一色と化した美しい世界。
 まだ「雪」という言葉も存在自体も知らなかったため、世界そのものが、見慣れない姿へと本質的に変化したのだと思い込んだ。雪に覆われたその下に、いつもと変わらぬ同じ世界が眠っているとは思いもせず、美しく変貌した世界を、ただ驚きの目で眺めていた。

 記録的な大雪が降ったのは、その初雪体験から間もない日のことだった。常盤町に引っ越した直後の1月11日の朝、3歳下の従弟が生まれた日だと聞いている。
 この大雪については、最初の積雪体験より多くの記憶が残っている。
 庭で雪だるまや雪ウサギを作ってもらったことや、鷹師町に出向いて雪合戦を見たこと。「作ってもらった」とか「見た」という表現になるのは、まだ自分では何もできなかったから。

 雪だるまや雪ウサギの作り方を、じゅんこねえちゃんが教えてくれたが、雪玉を丸める作業を真似ようとしても、うまく丸めることができなかった。ただ直線的に転がすことしかできず、丸い形には近づかなかった。雪ウサギは、さらに形が複雑でまったく手に負えず、かじかんで思うように動かせなくなった手の上で溶けてしまった。冷たくしびれて動かなくなってしまった手に動揺し、ただ泣き声をあげた。

 引っ越したばかりの常盤町には、まだ全く知り合いがいなかったので、雪合戦をしたいじゅんこねえちゃんは鷹師町まで歩いて出向いた。自分も一緒に行きたいとおねだりして連れて行ってもらったが、さぞかし足手まといだったことだろう。
 鷹師町での対戦相手は、もっぱら裏隣りで水あめ工場を営んでいた石川さんの若いご主人と、その子どもたちだった。石川さんに雪玉をぶつけられた叔母が、勢いのある声で「絶対に仕返ししてやる」と口にしながら、笑顔を浮かべていた。
 自分も参加したかったのだが、投げようとしても足もと近くに力なくポトリと落ちた。
「ここから見ていなさい」と、見物の位置を指定され、道の端っこから、歓声をあげて躍動する「大きな人たち」を、仲間に加われない淋しさを感じながら、じっと佇んだまま眺めていた。

 道路の向こう側の、やや南側の石塀の陰に、自分の背丈より高い大きな雪だるまを見た記憶も残っているが、その大雪のときではなく、初めて経験した積雪のときだったかも知れない。その雪だるまには黒い土が混ざっており、少ない雪を集めて固めたものだったと思われるからだ。

 その薄汚れた雪だるまは、何やら恐ろし気に見えた。そして、その黒っぽい雪だるまは、あくる朝も溶けずに残っていた。
 日を超すということは、おさな児にとっては「永遠の時」を意味していた。

 ― 土や小石を混ぜて作った雪だるまは、石になってしまうんだ ―

 本気でそう思い込んだ。

 それよりずっと後の別なある日、セメントに砂を混ぜているところを見たとき、そのことを確信した。

 ― 土や砂を混ぜると、石みたいになってしまう ―

 その「溶けない雪だるま」は、さらに翌々日にはどうなっていたか・・・、それが全く記憶にない。その「石になった雪だるま」は、いまだに記憶の中で、溶けることなくそのまま立ち続けている。

 私が生まれる3年前の昭和28年に、テレビの本放送が始まった。白黒画像を映し出す懐かしきブラウン管テレビが我が家にやってくるのは、常盤町に引っ越してからのことで、鷹師町の家にはまだテレビがなく、横幅30センチほどのベージュのラジオが1台。2歳の私が喜ぶだろうと購入したものだったのが、喜んだのはむしろ1歳の妹のほうだったと聞いている。
 ただし、それは、1歳児の反応のほうがわかりやすかったというだけのことで、2歳の私も、ラジオには興味津々だった。
 当時、「一丁目一番地」というラジオドラマがあって、中から人の声やクラクションなどの環境ノイズが聞こえてくるのが不思議だった。中に小さなミニチュアサイズの町があって、人形のような人々が暮らしているのだと思っていて、中を覗き込んだり、手に触れてみたくて、隙間からどうにか手を入れようと試みた。
 その様子を見た両親は、感電を恐れて一計を講じた。父は鴨井の上に木製の板を取り付けて、その上にラジオを置いた。ハイハイしながら笑顔を浮かべて、その方向を見上げる妹の姿が、写真に撮られて残っている。

 寝かしつけられるとき、母がよく桃太郎の話を聞かせてくれたり、子守歌を歌ったりしたが、同じ役目をじゅんこねえちゃんが担うこともあった。
 その子守歌の歌詞に謎めいた部分があって、どうにもそれが気になった。

 「でんでん太鼓に笙の笛」というのが、何なのかよく解らなかった。
 「あの山越えて里へ行った」というのは、さらに謎めいて怖かった。    
 「サト」という言葉の意味が全くわからず、イメージさえも湧かず、じゅんこねえちゃんに聞いても、しばらく考えた挙句、返って来たのは「こどもにはむずかしい」というひとことだけだった。

 たぶん、その恐ろし気な歌詞の影響だろう。じゅんこねえちゃんがどこかに姿を消してしまうのではないかという、いわれの無いぼんやりとした不安を、いつも感じていた。

 当時のじゅんこねえちゃんは、歌うことが好きで、また流行歌手に憧れる年ごろでもあったので、ラジオから聞こえてくる歌声に興味があって、ときおり「イカス」などという言葉を発することもあった。それは、2歳だった私にとって、まったく理解のできない言葉であり、じゅんこねんちゃんの意識が、自分のわからない謎めいた世界の方に向いていて、今にもその世界に向かって走り去ってしまうような、ぼんやりとした危うさを感じていた。
 
 「どこかに行ってしまう」と思った理由は、他にもあった。
 通り過ぎようとするロバのパン屋や、石焼き芋売りを、手をあげて追いかけながら呼び止めるときのじゅんこねえちゃんの足の速さ。あっと言う間に遠ざかる背中を見るにつけ、自分が決して追いつけない別世界的な能力を感じていた。
 雪だるまや雪ウサギを作ってくれた。おとなたちとの雪合戦に加わることができる。焼き芋屋さんを呼び止めてくれる。自分ができないことをやってくれる「じゅんこねえちゃん」への、当時の依存度は対する自分の依存度は高かった。
 そのじゅんこ姉ちゃんが歌う子守歌の歌詞の中に出てくる「あの山こえてサトへいった」という一節が、なにやら寂しく恐ろし気で、不安感を煽った。
 その頃繰り返し見た夢がある。その内容は、こんなものだった。

 ― ピエロの恰好をした怪しいおじさんが、人力車を引いている。その正体はヒトサライだ。じゅんこねえちゃんは「イカす!」と叫び、あとを追いかけて人力車に乗り込むと、そのまますう~っと中空に浮かび上がり、北の方向の山を超え、その向こうの闇の空に吸い込まれるように消えて行った。 ー

 得体の知れない恐ろしい夢だった。この一場面は、小学校にあがる頃まで繰り返し繰り返し何度も夢に現れた。鷹師町にいた2歳の頃は、この夢を実際に起こった現実だと思っていた。

 ― じゅんこねえちゃんは、死神を追いかけて死の世界に消え去った。今のじゅんこねえちゃんは、そのあと、おかあさんのお腹から再び生まれてきた。生まれ変わったじゅんこねえちゃんは、前とは別の人 ―

 このような、実際にはありえない仮想現実が、心の中に出来上がっていた。そう思い込んだ心理的な背景が、これまでの話から見えてくる。

 ある日ある時、父だったか母だったかはっきりしないが、このように問いかけたことがあった。

 「じゅんこねえちゃんには、本当の親がいたけど、今ではお父さんとお母さんが、じゅんこねえちゃんの親なの?」

 それに対して、

 「そうだよ」

 という答えが返ってきて、これがまた混乱を招いた。

 なぜそのようなことを聞いたのかと言えば、

 大人同士の会話の中から「今では私たちが親代わりなんだから」という言葉が聞こえたときに、その意味がよく解らずもやもやしていた。その謎から解き放たれたかったのだが…。

 その後、いつごろだったのかは、よく覚えていないが、幼児期に抱いたこの叔母に関するその妄想のことを母に話してみたことがあった。

「小さい頃、じゅんこねえちゃんは一度死んだと思ってた。そんなことあるわけがないけど、なんか一旦いなくなって、そしてまた戻ってきたような、そんな感じがしてたんだけど…」

 その問いかけに、母は宙を見つめながらこう言った。

 「ははぁん、あんたがいなくなったと思っているじゅんこねえちゃんは、じゅんこねえちゃんじゃないのよ」

                  (つづく)


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