見出し画像

期待することをやめられず、泣いているあなたへ

「ごめん、風邪ひいたみたいで熱出ちゃった…」
体調を崩して久しぶりの大切な友達との予定を延期してしまったことがありました。皆さんも別の理由にせよ、このような経験をした、若しくはされたことが一度はあるのではないでしょうか。

当時、友達からは「大丈夫、お大事にしてね。よくなったらまた日程調整しよう」と言ってはくれたものの、何にせよこちらからのドタキャンに変わりなく。

寒気から来る震えと熱による頭の重さ、申し訳なさにひいひい言いながら、相手の気持ちについて考えていました。もしかしたら、本当は怒っていただろうか、がっかりしただろうか、他に何か大事な用事を断って空けていてくれた可能性があっただろうか。「仕方ない」といでも言うように、あっけらかんと何も思わない人もいるかもしれない。

自分の場合はどうだろう。楽しみにしていたこと、約束していたことがすっぽり相手の都合で無くなってしまったらどういう感情になるんだろう。きっと、ムッとするんだろうな、少し怒るんだろうな…そんな光景が浮かびます。

ここでキーとなるのが「期待」という言葉。無意識下でわたしたちは人に期待を寄せているのでしょう。

期待することは悪いことではなく、嬉しいことや楽しいことをわくわく待っているだけなのに。期待の大きさに比例して、その期待が裏切られると怒りや悲しみに変わっていく、こういった感情の流れは、相手を糾弾することで解決できることのみではありません。

自分の気持ちをどのように整理すべきか、考え方を変えることで自分の気持ちを楽にしてあげられる、一時は解決することができると考えたのです。


はじまり

″Expect nothing, you have nothing to lose.″
わたしが19歳か20歳の頃、先生が言っていた言葉。

「(誰にも)期待しない方がいい、そうすれば何も失うものはないのだから」 

こんな意味に捉えました。そのあと彼は、「悲しいことだけどね」と。何故なのか聞いたところ、「楽しみがなくなるんだ、心待ちにする出来事がないってことさ。でも、それがなければ『がっかり』することがないだろう?」とのこと。

ああ、たしかにそうだね、と当時は言葉の輪郭を理解したに過ぎませんでしたが、あれからずっとこの会話が頭の中にこびり付いていました。

あれから約5年、先生が言っていた言葉の中に2通りの考え方を見出しました。


「期待すること」の定義

そもそも、「期待すること」とは何なのだろう。辞書で確認したところ、下記のように表現されていました。

あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。
出典: 小学館/デジタル大辞泉

たしかに、相手を当てにしているが為に、期待が大きく外れた結果、怒りなどに似た感情になって現れているように思われます。

であるならば、自分の立場や気持ちだけでなく、前述したように気持ちの整理の仕方に焦点を置くこと、相手の立場について考えてみることも大切です。

Case1:他人を当てにしないこと

前述の通り、初めからそもそも相手へ勝手に期待を寄せなければよいのでは、という考え方です。

期待や約束は破られる確率の方が高いのだ、と前提条件を設けておけば、自分の思いがその通りにならなかったことへのショックから自分自身を守ることができます。

「他人を当てにしない=期待しないこと」

いわゆる、一般的によく言われている自分を守るために「他人に期待しない」という考え方がこれにあたります。

なお、わたし自身、個人的に無意識に人に期待しがちなところがある為、この考え方がベストアンサーだとは思いませんでした。誰にも期待しないということは、相手に期待されなくてもよいと考えることとほぼ同義。悲しいことかもしれません。

楽しみは楽しみであって、期待は期待のまま、無意識にしてしまうもの、且つわずかに残ってしまうものです。

普段通り、わずかな期待を残した状態でも、どうにか「期待し過ぎない考え方」にシフトできるよう、考えていたのです。


Case2:相手の行動は誰が決めるのか

もう一つの考え方として、「相手の行動や気持ちは相手が決めるもの」ということ。

当たり前のことのように感じますが、例えば相手の都合や状況によって自分自身が望まない結果に至ってしまった時、相手のことだけ責めることをしていませんか。たしかに、期待にせよ、約束にせよ、どちらも破られた側には相手を非難する権利はあります。

しかし、断らざるを得ないと判断した「相手の感情や思考を勝手に自分の思うままに決めつけてしまうこと」は相手に失礼であることを知ること、相手にとってわたし達が期待を抱くまでの経緯や期待がどれ程大きいものであったかといった状況は一切関係ないということを頭に置くことが重要と考えます。 

Case1よりも、いくらかマイルドで少しドライな考え方かもしれませんが、これを皮切りに怒りのエネルギーを昇華させつつ、期待や約束が破られて「どんな気持ちになったか」を伝えることで、相手のこちらの気持ちへの理解に繋がると信じています。

ネガティブな感情に動かされ支配されているうちや、相手が余りにも浅はかな考えの持ち主の可能性、悪意が排除できない場合は、このように考えることが難しいかもしれません。

激昂している最中は、両者ストレートに言葉をぶつけあっても直ぐに飲み込むことができないでしょう。あくまでCase2の考え方を以って、一度冷静になるための一歩となりますように。

あとがき

ある日、悲しみをひとつとっても怒りが、悔しさが、安堵が混じる様な感情があることを、また人それぞれが受け取る感情はみな一律にはならないことも知りました。

考え方も、相手の気持ちに寄り添う考え方や自分の都合のよいように考えるなど多様なものがありますから、その中から一番自分自身が楽になれるような、救いのある思考の筋道と出会えますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?