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#2 戦争を生き抜いた祖母の実話。

こんにちは。茉波(まなみ)です。

今日は、1945年8月9日にタイムスリップし
自分に置き換えながら読んでいただけたら幸いです。

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真夏の太陽が照り付け、青空が広がる清々しい朝。
今日もいつものように駅へ出勤。

午前11時そろそろお腹も空いてきたな。
あと1時間お昼休憩までがんばろう。

突然、天井の電球がピカっとひかり消えた。
何事かと思い外に出ると長崎市内の方から大きな雲が見える。
何が起こったか分からないまま見つめていると
たまたまそこに居合わせた軍人さんが
「あれは広島に落ちた新型爆弾と一緒ばいね」

まさか、二回目の新型爆弾が投下されるなんて。
ましてや長崎に。長崎市内の方はどうなっているんだろうか。
3日前、広島に投下された新型爆弾で相当な方が死んでしまった事は
うわさで聞いているし、計り知れない被害が市内の方で起きている事は間違いない。市内に私が行った所で、力になれる事なんて無いし歯がゆい、
悔しい、そして悲しい。そんなやるせない気持ちで過ごしていた。

長崎に新型爆弾が投下された2日後。
私の住む大村市に長崎市内から被害を受けた人達を乗せた救護列車が来ると駅員さんから聞いた。相当な被害を受けている事は耳にしているけれど
運ばれてくる人々の様態はどの程度なのだろうか。
正直に言うと救護列車がここに来るのが怖い。
でも自分が少しでも力になれるならなりたい。
そんな不安や恐怖と葛藤を繰り返しながら救護列車が到着するのを待った。

向こうから救護列車が見え、とうとう駅に到着した。
乗車している人々は力尽き、手も体もすべて火傷している。
皮膚がただれ、赤い肉が見えている。悲惨すぎる。
私はこぶしを強く握りしめなが、体が震えている。酷過ぎて涙も出ない。

「水をください。水をください。」何度も何度も訴えている。
水はあげれない。だって、水をあげてしまうと安心して死んじゃうから。
私はひたすら負傷者の方を陸軍病院へ向かう車に乗せるため

負傷者の方の手を取り、肩に回して歩いた。
どうか、、お願い、助かって欲しい。

75年前、私は16歳。
2020年、私は91歳になった。あの日の光景が目に焼き付いて離れない。
あの日の事を昨日の事のように鮮明に思い出す。
こんな、悲惨な出来事は二度と起こってはならないし、起こさせてはならない。

https://wararchive.yahoo.co.jp/history/

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私が幼い頃から祖母は戦時中のお話ししてくれます。
今日書かせて頂いたお話は、祖母の気持ちに立った時に
どんな事を考え、どんな気持ちだったのか
考えながら祖母のお話を元に書かせて頂きました。

祖母は高齢になった為、少し前に話していた事を忘れる事もしばしば。
1日の内にこの話を二度三度話す事もあります。
だけど、私は毎回初めて聞く話のつもりで一生懸命聴いてます。
いつだってこの話をする時、祖母は当時を思い出し涙ぐみながら話しているから。

戦争体験者にしか分からない恐怖は計り知れないものだと思う。
深く傷ついた心を私が癒す事は出来ないかもしれないけど
懸命に私に伝えようとしてくれる祖母の話を蔑ろにせず
この事実を自分の中だけに留めず、発進する事は大切だと思い
投稿させて頂きました。

2020年に書いた記事ですが、投稿する勇気が無く下書きに保存されたままでした。30歳になったわたし。誰も予期していなかった、ロシアのウクライナへの攻撃。

絶対にあってはいけないこと。


昨年、おばあちゃんは94歳まで立派に生き抜き永眠しました。
当時、テレビ電話をした時に、目は瞑ってお話しできない状態だったけど
「赤ちゃんお腹にいるよ。ウェデインングドレスも着たよ。おばあちゃん。」って報告しました。反応はなかったけれどしっかり聞いてくれてたと思います。その日の夜、安心したのかおばあちゃんは永眠しました。
私の大好きなおばあちゃんです。この記事のことも思い出させてくれてありがとう。

投稿しようと決めたのにまた投稿せず、32歳になったわたし。父と母から
先ほど連絡が来て長崎戦没者平和記念館に行き祖母の遺影を見に来たとのこと。
原爆が投下された日でも、終戦日でもなんでのない日だけれど
なんだかおばあちゃんが早く記事を見せてくれんね。と言ってくれてるような気がしてやっと重い腰をあげ、4年越しに投稿させて頂きます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。







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