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名もなきぼくらの『ウルトラマンネクサス』

 『ウルトラマンネクサス』は、2004年から2005年にかけてテレビ放送された特撮ドラマであり、『スペースビースト』と呼ばれる怪獣から人々を守るために戦う光の巨人の活躍を描いた作品。

 ウルトラマンシリーズの中でも異色の作品で、グロテスクな怪獣のデザイン、その見た目に劣らぬ凄惨な人的被害描写、陰鬱で重苦しい序盤のストーリー展開のために、「怖い」「グロい」「オススメしづらい」と(ほとんど間違っていないが)いささかネガティブな誤解を生みやすいタイトルだ。

 実際ネクサスのストーリーは、前作『ウルトラマンコスモス』の明るい作劇、優しさに満ち溢れたストレートなメッセージ性からは想像もつかないほど重く暗い。再放送時、なぜか深夜枠で放送されたことで、その重さ・暗さにいらぬ箔がついてしまったような気がしなくもない。

 しかし、私はむしろネクサスこそ子どもたちに、そしてすべての人に贈る最高のヒーローだと信じて疑わない。主語をいたずらに拡大するが、ネクサスの根強いファンならばこの意見に対して否定的に考えることはないだろう。無論これは「そもそも子ども向け番組なんだから」というメタな物言いをしたいわけではない。ネクサスが、ウルトラマンが、そもそも誰のためのヒーローなのか。ここでは私なりの考え方で語りたい。

※語りたい部分の都合上、多くのネタバレを含みます※


ぐんぐんカットが世界一かっこいい

○本題の前に

 まず、番組としての『ウルトラマンネクサス』に関して、その制作上の事情を噛み砕いて説明する。

・マルチメディア展開

 ファンの間では当たり前なことだが、本作は『ULTRA N PROJECT』と呼ばれる、映画・テレビ・雑誌によるマルチメディア企画であり、今でいうユニバースものの一角としてテレビの担当が『ネクサス』だった。映画『ULTRAMAN』は『ネクサス』本編の5年前の出来事だと作中で明かされる。

・非常に低予算

 もとよりウルトラマンシリーズはお金のかかる番組。着ぐるみ・ミニチュア・火薬etc……挙げればキリがないが、ネクサスの時は毎話違った怪獣が登場した前作とは違い、(例外はあるが)3話で一体の怪獣しか出せず、ミニチュアの街のセットでの撮影も終盤まで殆ど出せないなど、露骨に低予算であった。その点をカバーするため、ネクサスと怪獣の戦いは、ネクサス自身の能力によって怪獣を異空間『メタフィールド』に引き摺り込み、無関係な人々を巻き込まないようにするなど、作劇上の演出に落とし込むという手段がとられた。

・放送期間の短縮

 前項とも多少関連するが、ネクサスは放送話数が本来の計画から途中で短縮された。本来50話かけて描く連続ドラマだったところが、実際には37話(DVD特典で外伝的エピソードが追加されている)
 これは単に視聴率・グッズの売り上げ不振以外にも多くの事情が存在するが、本筋と無関係なため触れるのはここまでとする。

○ネクサスの光

最初はびっくりしたジュネッスブルー

 これまでのウルトラマンシリーズとの決定的な違いとして、主人公であり語り部である『孤門一輝』がウルトラマンに変身しないことが挙げられる。

 彼は設定上のフィクションの部分が非常に少ない。精々防衛隊にスカウトされて怪獣と闘うという点くらいで、そんなものはネクサスが『ウルトラマン』という特撮ドラマであるが故の必然的なものだ。仕事の失敗を咎められたら落ち込むし、使命感や怒りに身を焦がすこともあるし、心の傷に耐え切れなくなってしまうこともあれば、友達や恋人と談笑する様子も見せる。

 徹底して物語世界における一般人代表であることが作中全体で協調されているのだ。

 しかもこれは孤門だけに限った話ではなく、『ネクサス』の物語そのものがフィクションの部分ができる限りダイエットされたお話であることも見て取れる。防衛隊のメンバーもエピソード単位で人物が深堀りされるのは、両親を殺した怪獣への復讐に燃える女性副隊長『西条凪』くらいであり、主人公に助言をしたりしてキャラが立っているように思える和倉隊長も、実は細かな出自などは全く明らかにされていない。(防衛隊の過去については触れられるが)

 意図的にフィクション感を出しているのは防衛隊の任務の指令を出す『イラストレーター』と呼ばれる青年と後述のラスボスくらいなものである。

 事件に巻き込まれる一般人たちにおいてもそれは強調されており、ただそこにいたという理由で次々と人死にが起こるのも、現実の自然災害の現場のようで嫌にリアルだ。

 そして何より、ウルトラマンの変身者ですら一般人なのだ。

 先述した通り、ネクサスではウルトラマンの正体を追うこともシナリオの重要な部分だ。突如現れ、怪獣を倒して去る銀色の巨人。その変身者は『適能者(デュナミスト)』と呼ばれる人間。劇場版『ULTRAMAN』の主人公を除いた二人について触れよう。

・姫矢准

 物語開始当初の適能者であり、各地を転々として怪獣と闘い続けていた男。寡黙で多くを語ろうとせず、主人公たちの窮地を救った後はふといなくなってしまう。そんな彼は『ウルトラセブン』の主人公モロボシ・ダンのように宇宙人が人間の姿を借りているわけではなく、偶然にもウルトラマンの光に選ばれた元ジャーナリストの男性だった。

 かつては世の中の不正を暴くことに熱意を向ける熱血漢であった。紛争地帯の取材中に親交を深めたセラという孤児の少女が、爆撃に巻き込まれて死亡する瞬間を意図せず撮影してしまい、よりにもよってその写真が高く評価されてしまったことが彼の心に大きな影を落とした。

 人々の死を目の当たりにしながら、誰ひとり救えなかった自分がウルトラマンの光に選ばれた意味を『』『贖罪』と考えている。

・千樹憐

 物語後半での適能者。他者の笑顔が見られるという理由から遊園地でアルバイトをしている青年。人懐っこく、彼に対するヒロインにあたる人物が登場することもあって暗く重苦しかった前半からは考えられない程ドラマを明るく彩ってくれる。

 先述の“フィクションの少なさ”と矛盾するかもしれないが、いわゆる試験管ベビーであり、デザインされて生を受けた。しかし遺伝子の欠陥のために余命が僅かであり、誰にも迷惑をかけないために生まれ育ったダラスの研究所を飛び出して東京に訪れた。出自こそ特異であるが、それ以外の部分は良くいるフリーターの若者だ。

 ウルトラマンの光を受け継いだことで、短い寿命を役立てられることに喜びを感じていたが、同時に『自分の命はどうでもいい』とも考えており、変身した際は一切の防御行動をとらない。

・選ばれしものたち

 前述の二人の適能者は共通して心に影を抱え、生きる意味を見失っている。姫矢は他者の、憐は自身の命に対する影だ。

 ウルトラマンネクサスはテレビ本編中、決して人語を介して話さない。適能者たちはウルトラマンとの邂逅時などに何らかの意思を読み取ったような演出がされるが、その真意の全てを理解することはできなかった。

 特に姫矢編では、姫矢がウルトラマンの力を得たことの意味に葛藤する様子がよく描かれる。彼は大切な人を守れなかったことをずっと後悔し続け、ウルトラマンとして闘い、傷つき、孤独に死んでいくことが唯一の贖罪だと解釈していた。

 憐も遠回しな表現ではあるが、自身の死によって悲しむ人々への負い目や、捨て身の戦闘スタイルから闇を感じずにはいられない。『死んでも構わない』などと考えるのは、健全な人間の心情であるはずがない。事実、自身に深く関わり過ぎたヒロインの記憶をある方法で消し去ろうとする暴挙にでるなど、どこか彼は突発的な行動に出がちだ。

 片や元ジャーナリスト。片やフリーター。現実でも探せばいる、名もなき人々。傷つき道に迷った、弱い人間。

 だが、そんな名もなき彼らをウルトラマンは選んだ。

 ここでウルトラマンネクサスというヒーローについて少し深堀りする。

 ネクサスは前日譚に当たる映画『ULTRAMAN』に登場した『ザ・ネクスト』と同一人物であり、『ウルトラマンノア』というウルトラシリーズにおける神格的存在の“弱体化した姿”である。

 ウルトラシリーズの世界でも圧倒的な力を持っていたノアだが、とある理由から傷を負い、人間と融合しなければ実体を保てず、命すら危うい状態に陥っていた。それでも宇宙を守るために人間の体に宿り、その力を借りる道を選んだのだ。彼と同じように地球に訪れた怪獣『ビースト・ザ・ワン』は人間を喰らい取り込むことで成長したが、あくまでウルトラマンは自らを危険に曝してでも人間の命を奪うことだけはしなかった。

 人知の及ばぬ強靭な肉体を持ち、神秘的な力を振るう、明らかな上位存在。そんな偉大な存在が、生きる意味を見失った弱い人間を必要とした。

 都合のいい解釈と言われるのを承知で、私は『ウルトラマンネクサス』という物語のテーマを以下のように考えている。

 名もなき弱い私を、誰かがどこかで必要としている。

○子供たちへ届け

 ここで少し、余計なオタクを発揮しよう(意味不明)

 ウルトラマンネクサスは先述の通り、深夜枠で再放送されたこともあって『大人向け』というレッテル(?)が貼られがちなドラマだが、私はむしろネクサスこそが子どもたちのヒーロー『ウルトラマン』としての原点回帰だと信じて疑わない。

 最終話、ついに姿を現した巨悪との闘いで、ウルトラマンは技を次々と繰り出すも全て無力化されてしまう。その光景を目の当たりにした防衛隊隊長は絶望すら覚える。だがそこに西条凪が現れてこう告げる。

「大丈夫。ウルトラマンは負けません!」

 根拠などどこにもありはしないが、それでも凪は力強く言い放つ。これだけでも特撮ヒーローの何たるやを体現した素晴らしい名セリフだと思っているが、更に素晴らしいのはその直後。

 ウルトラマンネクサスが遂に本来の力を取り戻すシークエンスは是非、直接本編を観て確かめてほしい。ヒーローが覚醒する最後の決め台詞を“誰が”そして“何と”言ったのか。ネクサスに限らず『ウルトラマンシリーズ』において最も大切な要素は、こんなにもシンプルでパワフルだと思い知らされる完璧なシーンだ。

ウルトラマンノア

○おわりに

 現実の世界はどうしてもフィクションのようにはいかない。歴史に名を遺す様な偉人たちがテレビやネットで大なり小なり活躍する足元で、私はもがくようにその日を生きている。勉強は得意じゃないし、運動はからっきしで、体は弱くて、しかもどんくさい。

 誰も彼もが偉人の基準で生きていけないことを頭で理解していても、なんとなく光の当たる人々を羨ましく思ってしまう。子どもの頃、ふと自分が何も特別でないことに気付いて以来、ずっと抱えてきた影だ。根拠もなく断言してしまうと、きっと同じことを考えた人は多いと思う。

 ただ、私の中の子どもの部分が、どうしても手放さずに持っていたいと訴え続ける希望が『ネクサス』の残してくれた光だった。こんなにも弱い自分を必要とする人はいるかもしれない。それは無条件に愛されたいという本能的な欲求もあるのだが、それと同等に『こんな自分でも無条件に誰かを愛せるかもしれない』という、(まだ少し弱気な)自信にもなった。

 最後に、ウルトラマンネクサスの番組最後を締め括る言葉をお借りして、ピリオドの代わりとさせていただく。

 僕達は生きている。

 例え昨日までの平和を失い、恐ろしい現実に直面しても。

 大切なものを無くし心引き裂かれても、思いもよらぬ悪意に立ちすくんだとしても。

 僕達は生きる!

 何度も傷付き、何度も立ち上がり、僕達は生きる。

 僕らはひとりじゃないから。

 君は、ひとりじゃないから。

 諦めるな!!

 NEXUS

 それは受け継がれてゆく魂の絆

ウルトラマンネクサス最終話『絆-ネクサスー』より


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