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ゲンキーの能登半島地震への対応記録「地域住民の生活のため、翌日全店開店を目指せ」

2024年1月1日16時10分頃、石川県能登半島地下16kmを震源とする強い地震が発生(後に令和6年能登半島地震と命名)。観測された最大震度は輪島市門前町と羽咋郡志賀町で震度7。珠洲市や七尾市など多くの地域で震度6強を観測、能登半島北部いわゆる奥能登を中心に甚大な被害をもたらした。ゲンキーは被災地域に複数の店舗を出店している。ここでは、同社取締役店舗運営部長の中川竜氏に取材。中川氏の動きとグループLINEに集まった投稿を通して、大規模地震への対応を見ていく。(月刊MD編集長 野間口 司郎)


【Day1】2024年1月1日(月)

5mの大津波警報が出る中 決死の現場への移動

1月1日はゲンキーの年に1回の全店、全社の休業日である。正月午後と言えば、いわゆる「おとそ気分」でゆっくりくつろぐのが、多くの人の過ごし方である。ゲンキー従業員たちもそんな時間を過ごしていたが、16時10分頃発生した能登半島地震で様相は一変する。

中川竜店舗運営部長は、正月の挨拶回りから福井県坂井市にある自宅に着いた直後、玄関で強い揺れを感じる。子供たちを机の下に避難させると同時に大きな被害になれば、被災地域では水、食品などの緊急物資が必要になるという思いが頭をよぎったという。

▲[画像1]地震後最初の投稿

画像1は、中川氏が地震直後、ゲンキー幹部が参加するグループLINEに投稿した第一報である。ゲンキーのグループLINEには藤永賢一社長以下、営業系部署の部長職以上43人がメンバー登録。普段は店舗の販売状況や商品情報など営業に関する連絡に使われている。能登半島地震においては、このグループLINEに情報が集約され、それらを基に現場の指揮を中川氏が執るという態勢が取られた。

▲[画像2]能登帰省中の従業員から投稿された写真

地震発生直後の16時12分には石川県能登地方には3mの津波警報が、16時22分からは5mの大津波警報に切り替わり、発令されていた。これを受け中川氏は能登エリア沿岸部を中心に全従業員に避難指示を出した。その後、能登半島に帰省中のメンバーから陥没した道路状況の写真も投稿される(画像2)。

▲[画像3]全従業員へ避難指示の連絡完了

16時22分には石川県を管轄している藤田毅ゾーンマネージャーから課長経由で全従業員に避難指示が完了したこと、状況確認中である連絡が入る。藤永社長からは津波を心配し、店舗確認には行かないようにという指示も出た(画像3)。

中川氏の自宅はゲンキーの本社近くで北陸自動車道丸岡インターから数百メートルの距離にある。体質的に酒の飲めない中川氏は正月の挨拶回りでも飲酒することなく、車を運転できる状況にあった。地震発生直後、現場に向かうことを決意、グループLINEに第一報を投稿した直後、中川氏は16時20分頃には車に乗り込み、丸岡インターから能登を目指していた。

丸岡インターから大きな被害の出ている石川県志賀町までは通常なら所要時間は1時間40分ほど。ただ、能登地方には5mの大津波警報が発令中で「到達中」との予報も出ている。丸岡から能登に入るには、石川県金沢市を経て海岸線に沿って走る「のと里山海道」を通る必要があり、ここを通行中に5mの津波に見舞われれば車もろとものみ込まれる危険を伴う。

「5mの津波警報が出ていることは知っていました。能登へ向かう途中海岸線を走っているときに津波に遭えば命の危険があることも認識していました。のと里山海道を走っているときは自分の車しかなく、置かれた状況がよく理解できました」(中川氏)

同じ頃、中川氏と同じリスクを負って、ゾーンマネージャーの藤田氏も福井から能登に向かっていた。

「藤田にも津波の状況等は確認しましたが、『部長が行くなら私も行く』、とのことでした」(中川氏)。のちに二人は羽咋(はくい)で合流する。

▲[画像4]「明日、全店開店」が目標に

翌2日は、当初より本部人員、商品部、店舗開発部などの社員は店舗応援に入る予定だった。17時26分、その人員を能登の応援へ振り分ける手配を取る。この段階で店舗の被害状況はつかめていなかった。直後の17時31分、藤永社長から「明日、全店開店を目指そう!」とのLINEが入り(画像4)、これに向け中川部長以下、本部応援社員、前線の店長、パートナー(パート従業員)の奮闘が始まる。

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