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読書会に参加してみたら明け方4:00までぼーーっとしてしまった

最初に長たらしく言い訳をさせてほしい。
今の私にとって「一よりも集団としての価値を見つけなければいけない」 というのは難易度が高い。
そして私はそれでもわからないながらに、
他者・異質をそのまま受け入れようとする(思考を3秒して「こんな良いところがあるじゃん これは長期的に見れば良いことだよ」と自分に言うことが癖になっている) 特性があるので、今までよりも少しごちゃごちゃしている。

ただ前述の私から言わせれば、
こうして数年ぶりにちゃんと人に公開する用の文章を書けている事実がある それは良い変化で、価値だなと思う。という5割くらいの私がいる。

ここに書きたくなったのは、
私の中に渦巻く何かが、今日、あったからだ。
今日新たな場、『読書会』に飛び込んだ9:00-13:00、その足で書店を巡った13:00-14:30、読書のために自分の駅を通り過ぎてそのまま終点から折り返す選択をした14:30-15:30、帰って読み慣れない書籍の購入と同時にKindle契約して、2割ほどの読書量で寝落ちた15:30-19:30、起きて何もできなくなり、流すようにテレビを見て情報量を処理するために棚の断捨離を始めてぼーーっと動けなくなった20:00-2:00、ようやく風呂に入ってご飯を食べる2:00-3:00(今)

私の中に何かが渦巻いていることは確かで、
たかが読書会ひとつで、という言葉はもちろんなのだけど、そこに参加した後の私の感情まで統制されるものじゃない
どんな言葉を使ってどう表現しようが私の自由で、それが「私の進み方だ」と思ったので、進む方向に従って言葉に残していこうと思う

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感じたことはたくさんある
そしてそれは矛盾と正義と恥が絡まってるが故に、私がそのまま腑に落とすのが難しいのだと思う。

正義と恥について

これは私が私たるところに持っているもので、大事にしていて、他者のそれに敏感。

帰ってきた私の5割は、いや嘘、7〜8割は恥でできていた。
情報を知らないことへの、無知ゆえに偏った情報に信仰していることへの。

そしてその偏った情報の一つが、私が大事に持っていた「本」というものなのだと思う。

大学時代に手に取って、「おもしろい」と夢中になり、卒論にまで書いた。
ビジョン思考に関して書かれた本で、
思考法のなかには、この社会で自分が解放されていくためのヒントがあり、
誰もが創造性高く、子供の創造性を豊かに育むためのスタンスを、ビジュアルや具体例を見せて書いてくれた良い本だ。

「それは良い本だと思うけど、読み返さなくても良いかもね」
という、ファシリから最後にあった言葉が、
なんだか恥ずかしい気持ちになったのだ。
プレゼンの途中からメモのペンが動かなくなり、
その画がまず始めにわたしの心にドスンときて、先頭に立って離れなくなった。

そしてこうもつながった
「検討余地のない情報」と。

読書会の始めに、「良い本を選ぶために重要なことは、悪本を選ばないこと」「まずは読書家が推薦する本を読むと良い」
と、言葉があった

声を大にして言いたいのだが、わたしはインプットが非常に苦手だ。
特に社会的な情報は著しく興味関心が少ない。
高校以降から勉強につまづいたのはここだと思う。授業が面白くてノート丸暗記ができた中学と違って、膨大な情報に集中して、ときに大事なことを抽出していかなければならない。
面白くない。ただ小難しい言語の並んだ情報の羅列なのだ。もっと面白く話せないのか、、?歴史のワードを覚えることに何の意味が、、?
くらいのモチベーションで社会的なことが書かれた本は読んでいる。
いや読んでないな。正直全く読んでいない。
大学で出された課題図書は、レポートのために徹夜で1/3だけ流し見して、意味もわからず重要っぽいところを情報を抜き取って書いていたし、
課金したニューズピクスはだんだん飽きてしまってお金だけ垂れ流していた。

本当に最初から最後まで読み切れた本なんてこの世で片手で数える程度しかない。

本当に本もニュースも関心が薄くて堪え性がなくて読めない。😂

それよりも手っ取り早く面白いもの、芸人の特色や掛け合いが面白いバラエティや、アニメや漫画、音楽の作り方や美しいCM、色彩豊かな絵など、自分の興味関心領域にあるものはずっと触れている。

ただ、それに関してもわたしは「ラスボス前症候群」なので、最後まで追うことに対するモチベはなく、同じものを繰り返し見続けたりしている。
全巻まとめ買いしたアオアシも、あまりに面白いためにまだ11巻の余韻を楽しみたくて、もう買って2ヶ月目だがまだそこから進むつもりがない。

それだけ新たな情報や社会の情報が、わたしに流れ込まないようにしている状況。

それが今日、ダムが一部崩壊したようにドカっと流れ込んできた。
そしてその良質そうな選び抜かれた情報を持っている人から、「もっと社会を知れ 君が大事に抱えたその情報はあまり価値がない」と言われたような気持ちだった。

社会を知れ、今のわたしには物事を検討する・自分にとって良い選択ができるだけの土台がない

「今の〇〇の考え・意志にはなんの価値もない 無意味だ」
そう就活の時に言われたことを思い出した。
パンチが効いてる人だったが、
その当時のわたしは心ノーガードでそれを受け止め悲しんだ。

そうだな、今日言われた気持ちも、
やはり1番は恥ずかしかったのだ。目線が合わせられなくなって言い訳をするように笑うくらいには。

と同時にだ、
正義?わたしのこだわりが湧いてくるのだ。
「検討余地がない」と切り捨てるのは嫌だなぁ と。

誰かがプレゼンしたメモの魔力、
「無名の誰かが情報を持っていても、それはただのウンチク野郎になる >「誰か」にまずなることが必要 >そのために、誰かを巻き込み動かす力が必要 >それは積み上げてきたインプットの言葉だ」
この流れが、そうだな、と思い、違和感になる。

「あの人は〇〇の管理職、この著者は〇〇をして名を挙げた人、元リクルート、ここにいるファシリはみんな独立している、、、」

なんだか嫌だなぁと思ったんだ
肩書きから語りはじめるのが。

集団に対して興味がない癖に、わたしは
わたしを見てほしいと願ってしまうんだ。

そしてうまく瞬発的に魅せたいわたしを出すこともできないから、
価値のない存在と切り捨てられることが悲しくなる。

でもそれは、わたしがいつも仕事でやってることでもある。
管理業務に慣れてくると、KPIが中心となって、現場の声をきいても「どう処理するか」ばかり考えている。そこにいる人の気持ちや、その意見含めてよくしていこう という気持ちがどんどん薄れていく。

学生はまだ学生。見えていないものがたくさんある。管理側についてないから、全体像が見えてないんだなぁ。
そういう認識を前提に話を進める。

わたしの尊敬する人たちは、
相手が誰であっても自立した一個人として意見を聞いてくれた。拙い言葉でも狭い世界観であっても、子供をあやすようにしゃがんで目線合わせをするわけではなく、対等にしっかりと考えて話してくれた。

その向き合う姿勢が、本当は1番尊敬していたのかも知れない。

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最後の問いはこうだ。
わたしはなぜ読書を始めるのか?

成功したいから?自分の趣味活動のために自由な時間を作りたいから?将来子供を産んだときの選択肢を増やしたいから?

気づいたのだ。
自分が他者の情報を遮断したくなるのは、
それによって自分のなにかを根本から曲げなければいけないと感じるからだと。

どちらが正しいか、切り捨てるか、否定するか、選ばなければならないことだと。

それは違う。
もしわたしが、社会を知らないことに危機感を持って、「それじゃあ、苦手ではあるけどまずはこれを継続することで、3ヶ月先にはきっと見える景色が少し変わっているだろう」と決めて通うとしても、
今日、こうして自分が思った違和感に蓋をする必要はないのだ。

だってそれはわたしの感情だから。
通い続けるにしても、このわたしの反応や違和感や思考にこそ価値のあるものじゃないか?
その変化も見つめていたいじゃないか。

そうすると答えは出てくるのだ。

わたしが読書をしたいのは、
大事なものを大事にしたいから。
そのための選択肢を広げたい。
その養分としての情報だ。

わたしが大事なものを大事にするためだ。
他人が大事なもの・価値観の話ではない。
わたしの大事なものの話だ。

だからいいんだ。
わたしの大事に持っていた情報を誰かに否定されようが、わたしはわたしの大事なものを大事にするためにそこに通う。
だからそこを合わせる必要はないし、
最終的に決めるのはわたしだ。

大事なものを大事にするための道を決めるのはわたしだ。それはもしかしたら情報は必ずしも必要ではないかも知れない。
だけどわたしは、いま目の前の人たちが見ている世界観を同じ土台で見つめてみたいから、自分に新たな情報を取り込んでいく。
その上で、さっきの情報をどう捉えるのかはわたし次第だ。
何が大事に映るのかは、常に今のわたしが教えてくれる。

だから違和感を感じるのも大切。
そしてそれを捻じ曲げずに、
こんな良いところもあるじゃんで一言で片付けずに、こんな意味わからない時間に矛盾を矛盾のまま言葉にしてみるのも大事。

4:00前の青い空を見るまで起きてしまった今日。
不思議とスッキリしている。

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