エモ/ウイルス

先日から、コロナウイルスの法律上の分類が引き下げられたらしい。

「すべてはエモに回収されうる」と、ずっと思っている。
どんな幸せなことも不幸せなことも、平常の値からの距離があればそれは「エモ」になる。文字通り「感情」が動いているから。
僕はそれが嫌いで、そうである以上にそれが好きだ。
それ自体が絶えず僕の感情を逆なでしていて、自己言及性を孕んでいる。
僕は無宗教だけれども、例外的にそれを信奉している。病と言えるくらいに。

組織の黒幕を「あの方」と呼ぶように、エモを「それ」と呼ぶことにしよう。口にすると簡単につまらなくなってしまうから。

そのセンチメンタルはいつか お前の身を滅ぼすのかもしれないよ
感傷中毒の患者 禁断症状映画館へ走る

andymori『すごい速さ』

僕は時に、不幸せな「それ」を強く求める。
不幸せなフィクションを摂取して、これが現実なんだ、これが素晴らしいんだと納得する。
もう、全部間違っている。
もう、全部手遅れなんだよ。

そうやって自分の倒錯を自覚しているということも、その上に立つ自己憐憫も、自己批判も、諦めも、全部その肥やしになる。
自身をも餌として無限に増長し続ける「それ」を、僕はどうやって飼い慣らすことができようか。
僕の一挙手一投足が、僕の感情の機微すべてが、僕の内に住む「それ」によって俯瞰される。喰われる。
常に僕はアクターで、常にそれはオーディエンスだ。
今度こそ回り込んだように思えても、常に外側に「それ」はいる。
二者を隔てる第四の壁は一点の曇りもなく澄んでおり、しかし絶対に破ることができない。

わるい本田は『ファニーゲーム』を語る際に、「イジメられていた時のことを思い出してエモい」んだと力説していた。
軽々しくは言えないけれど、少しだけ、分かる気がする。

僕は高校生活が丸々コロナウイルスとの闘いの期間と重なっていて、とびきり意味のない時間を過ごした。
もちろんそれが時代のせいだとか、社会のせいだと言いたいわけじゃない。
もう何のせいでもないんだよ。そうすることで傷つく人が減るのなら、たとえ嘘だとしてももうそういうことにさせてくれ。責任とか、戦犯とか、正しすぎる。

個人的なすべての成功も、失敗も、ウイルスによるすべての停滞も、分断も。
きっと後にはあの閉塞感が、光景がエモくなるんだと思う。
それぞれの個人的な十字架や、この世代の十字架を背負いながら、時にはエモとして消化する。
崩壊すれすれに立つこの世界に生きる者に残された、あるいは許された最後の特権が、救済措置が、エモというescapismなんだと思う。

スロー  あの花咲く頃に
スロー  石を投げつけたい
スロー  あの花枯れる頃
スロー  水をかけてやりたい

Thee Michelle Gun Elephant『スロー』

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