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[小説]ある統合失調者の記憶 6話 弁護士事務所

今回は前回よりもさらに長く8800字くらいです。前回は、世界恐慌が起きるという妄想の始まりを書きました。今回は、ついに妄想を受け入れてしまいます。そして、妄想は際限なく拡大を始めます。


 震度計は、大学の研究室、市役所内など日本全国に設置されている。多くの震度計の周りは、冷たいコンクリートで塗り固められているそうだ、他の影響を受けないために。人の感覚では地殻の変動を読み取ることはできない。震度計とは、気象庁が定めた気象庁検定という厳しい基準を合格した構造・性能・機能を有した地震計をいう。現代において、測定された記録は即座に記録され、計算され、気象庁や大学研究機関などに共有され、日本国内にインターネットを通じて公表される。そのため、異常値が発生した場合に、誰かが異常なデータの発生を見逃すということはない。しかし、震度計から異常値が吐き出されても、誰も兆候に気がつかなければ見逃されてしまう。地震学はまだまだわからないことが多い学問だ。
 1960年代後半、地球の地表が複数枚のプレートとよばれる巨大で固い岩盤でできており、このプレートが動くことで大陸移動が引き起こされたとするプレートテクトニクスが提唱された。この理論は、今までよくわかっていなかった地震発生のメカニズムを解き明かすかにみえた。しかし、学問を探究すれば新たな疑問点が現れてくることは人類史においてよくあるものだ。地表についてわかっても、地球は内側でも胎動していることがわかってきた。そこで、1990年代、プルームテクトニクスという新たな理論が提唱された。プルームとは、マントル内で起きる対流現象のことをいう。地球を輪切りしたとき、マントルは圧力によって高熱となった液体が光り輝いているように見えるという。地球が煮立った鍋であれば、プルームはさしずめ鍋の中でぐるぐると対流して上下するスープだ。この対流を続けるプルームが地表を鍋蓋を押し上げるようにノックして起きるのが地震の原因の一つであると言われている。
 現代の地震学では、地震予知をすることはできない。地震が起きる確率を計算することはできるが、それも正確とは言い難いものだ。なぜなら、マントル内を対流するプルームが複雑に絡み合いプレートにどのような影響を与えているのか、マントルの中でプルームがどのように発生しているかわかっていないし、すべての地表にある複雑なプレート達を調査することもできないからだ。だから、異常値が発生したとしても現代の地震学では予測することが難しい。それこそ、2011年3月11日に起きた東日本大震災のように。
 今も震度計は小刻みに揺れている。誰も知られることもない異常値を示しながら。

 私は、暗号資産マーケットの異常値を確認したとき、妄想が生み出されアメリカ合衆国が世界恐慌を引き起こそうとしていると思った。しかし、一部のデータだけを拾い出し、安直な結論に達するのは早いとも考えた。まだまだデータが不足している。もっと、大量にデータが必要だった。そこで、私は地震計の考え方を基に、ビットコインのチャートからデータを計算して、急騰、急落するマーケットの端緒を見出そうとした。そこで、入力されたデータに従って数値を予測するという回帰問題を利用する方法を採用し、プログラムを大幅に書き直すことにした。大きな投資行動があった後の市場の増減は予測できる範囲なので検討すべきデータから除外することにした。このプログラムで捕まえたいデータは、具体的な投資行動が起きていない無風の状態から、新たな投資を呼び起こすための呼び水となるような投資行動を把握することにあった。急騰、急落をする直前に大きな投資行動があるはずだ。それは、さしずめ、地震が起きる直前、P波にあたる小さな投資の波が発生しているのではないかというものだった。小さな投資の波は、より大きな投資の波を呼ぶ。私には確信があった。相変わらず激しい咳の発作があったものの自信に溢れていた。

 プログラムを稼働させて、何日も何日もデータを収集した。私が作ったプログラムは、マーケットの市場動向から投資の呼び水となりそうな異常値をピックアップしていった。そこで、ピックアップしているデータの一覧表を眺めていると、ある法則性を発見した。私のプログラムは、大きな投資が行われたときの数値を100以上、投資の呼び水となりそうになうな数値を1000以上という基準で考えていた。私がプリンターから打ち出した一覧表は、明らかにおかしかった。投資の呼び水となる異常値は、一日おきに1秒以内の数字も含めてまったく同じタイミングだったのだ。

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 プリンターで印刷された異常値のデータが並んでいる紙を見ながら一人唸った。こんな数字はあり得ない。腕を組み、首を前後に振りながら考えた。明らかにおかしい。私はいつものようにキッチンの前に立ち、薄いアメリカンコーヒーを作った。外からは、相変わらず車のブレーキ音が聞こえてくる。鳩時計を見ると夜の11時を過ぎている。本当なら、思いっきり濃くカフェインが濃厚なエスプレッソが飲みたかったが、今の私では軽い刺激でも喘息の発作が起きしてしまう。そのうち、アメリカンコーヒーも飲めなくなるだろう。そんなことを考えながら、再び異常値の一覧表に目を向ける。
 このデータは、意図的に同じタイミングで資金を投下していることを表していた。最初は、大手証券会社が機械的に資金を投下しているのではと考えた。しかし、示している数字もおかしい。もし、投下する資金が同じであったとしても、私の作成したプログラムが同じ異常値になることは絶対にありえない。なぜなら、マーケットのレートは常に一定しないし、意図して異常値を出そうとしても他の投資家の影響を受けるから数値は一定にならないはずだ。プログラムの故障だろうか?私の目がおかしくなったんだろうか?しかし、目の前にはプリンターから出力された紙に異常値が並んでいる。プログラム結果は嘘をつかないのではないか?それでは、この数字の意味はなんだろうか?
 薄っぺらいアメリカンコーヒーを口に含み、舌に転がしながら考える。もし、この数字が偶然の結果でなければどうだろうか。偶然の確率を数学者ではない私が考えても答えを出すことはできないが、このような偶然が発生する確率が極めて低いことくらいはわかる。そうすると、何者かがこの数字を調整したに違いない。では誰か?私は、直感的にアメリカ合衆国のような巨大な組織が意図的に調整して、異常値になるよう資金を投下しているのではないかと考えた。しかし、まだ考えなければならない問題点は二つある。
 一つ目は、他の投資家の投資額も含めて毎日同じ異常値になるように投下資金を調整できるのかということだ。昔、マイケル・ルイス氏のフラッシュボーイズという本を読んだ。これは、証券会社が行おうとする取引情報を通信回線から傍受した投資家がマイクロ秒以下のスピードで先回りして、利益を上げるというノン・フィクションだ。もし、電気通信網の暗号解読をマイクロミリ秒単位で成功している、若しくはフラッシュボーイズのように証券会社の投資情報を事前に入手できるとすれば、投資情報を先回りして利益を上げることも、投資金額を調整することも簡単だ。高速で暗号解読をできる量子コンピュータが2021年現在で実用化されているとは正直思えない。あるとしたら、国家がインターネット通信網を事前に傍受している場合だけだ。
 二つ目は、投資日時を毎日同じ時刻、投資金額を異常値である15000.24の値に調整する意図は何かということだ。そのとき、私の目の前に震度計の針が小刻みに動いているのが見えた。もし、特定の投資金額を特定の時間に投下したとき、未来の投資家の投資行動を制御できるとしたらどうなるだろう。
 これは、悪魔の囁きだ。
 人間には自由意志というものがある。決まった時に決まった額を投資すると、マーケットが呼応するように反応するなんてあり得ない。
「本当にそう思うか。お前が知らない人間はカカシも同然だ。」
もう一人の自分が嘲笑う。
「投資行動だけで未来に影響を与えられるわけがない。」
気がつくと、目の前には自分にそっくりの人間が、唇の片方だけをあげて、私を見つめていた。そいつは言う。
「人間の行動も物理現象の延長に過ぎない、法則に当てはまればその通りに行動するものさ。」
 周りは暗くなっていた。おかしい。自分の家にいるはずなのに。
「違う!人間一人一人には自由意志がある。それが一丸となって未来に同じ行動をするなんてありえない。」
「違うだって?この世界は所詮誰かが作ったシュミレーターに過ぎない。お前は、地球上の人間を何人知っているっていうんだ。せいぜい1万人くらいだろ。お前が知らないほとんどの人間はシミュレーションで動く人形さ。」
「世界中の人間がAIだとでもいうのか、一人一人に意識や自我があるじゃないか。」
 群衆心理というのは、多くの人たちを一括りにする考え方だ。だからといって、個々人の考えや、行動が特定の条件下で同じ行動を起こすとは思えない。
「意識や自我ってのは幻想だよ。人間ってのは意識する前から答えを決めている。意識は、脳が理由を後付けにしているだけさ。」
 そいつは、アメリカ人がそうするように、わざとらしく肩を上げ馬鹿にしたように両手を広げた。最近の脳科学は、脳は意識による判断の7秒前に決めているという。しかし、それさえも自由意思が脳の決定を拒むケースもあると言う。だから、投資のように長く考えてから決める判断は、意識の前に脳が判断するという考えに当てはまらないはずだ。
「それなら、この数字の意味はなんなんだ。」
「簡単だよ。これこそが、人間が自由意志を持たないことの証明さ。しかるべきときにしかるべき行動を起こすと、引き金となって馬鹿な民衆達が動きだすんだ。この世界は自然法則を再現した実験場だよ。俺たちはそこで飼われているペット、いやペットですらないな。実験動物以下の存在だ。このシミュレーションを作ったやつは、過去から未来を同時に見ながら変化する世界を楽しんでいるだろうよ。」
 問いかけるな、と思いながらやめることができない。言葉が口から出てきてしまう。
「過去と未来が変化する?」
 さらにそいつに問いかけてしまう。だめだ。口車に乗っちゃいけない。
「この世界はな、作りかけの金太郎飴みたいなものさ。過去が変われば未来が変わる。未来が変われば過去も変わるんだ。因果…原因と結果というのは、この世界では同時に変化するってことだ。」
「どういうことだ?」
だめだ、だめだ、だめだ。
「いいか?過去と未来は密接に影響している。それは、俺たちは過去と未来を何度も行き来しているからなんだ。そのことを、誰もが覚えちゃいないだろうがな。」
だめだ、頭で考えたことが言葉で出てしまう。
「過去と未来を行き来している?」
 私の頭の中に、金太郎のように引き伸ばされた過去から未来に並んだ世界が様々な色の光を発しながら変化していく様がみえた。そして、それを覆う影の姿も。
「そうさ、人間は死ぬとあの世に行くんじゃない。過去に戻っていくのさ、そこで人生をやり直す奴もいれば、他の人間になったりする。今も、未来からきた連中が馬鹿な民衆を使って好き勝手に未来を変えようとしているだろ?」
そいつは、ニヤニヤ顔を浮かべたまま、その言葉を吐き捨てた。
「それは、どういうことだ。過去に戻ることなんて人間にできるわけがないだろ。」
 だめだ。聞き返すな。
 もし、未来の記憶をもった存在が過去から来ていたとすればどうなる?それこそ、SFの世界だ。そんなことはあり得ない。
「もう頭の中で結論が出ているんだろ?このデータこそ、この世界がシミュレーション世界だという証明だ。このデータはバグなんだよ。だが、せっかくお前の頭から出てこれたんだ。もう少しだけ教えてやるよ。生者の時間はプラスに進行するが、死者…これを魂と言っても良いが、その時間はマイナスに進行するんだ。生者と死者が交互に過去と未来を移動することで、歴史が少しづつ修正されていく。変更された過去を観測する方法は一つだけある。マンデラ・エフェクトだ。」
 マンデラ・エフェクトとは、事実と異なる記憶を不特定多数の人間が共有する現象だ。マンデラの由来は、南アフリカの指導者ネルソン・マンデラ氏が1980年代に獄中死したという記憶をもった人たちが多数いたことからとられたという。もし、そいつが言うように、過去が改変された結果がマンデラ・エフェクトだとしても私には調べようがない。
 そいつは消え、ニヤニヤの口が、逆三角形になって私の前に浮かんでいた。
「ふざけるな!バグってなんなんだ!」
「おいおい、つれないな。少なくとも、アメリカ合衆国はバグを利用して民衆を操っているってことだ。せいぜい、インターネットには気をつけるこった、俺のためにもね。」
 口だけになったそいつは細かい粒子になって四散した。
 私は、そいつに言われるまでもなく、プログラムが異常値を吐き出したときから、その理由についての一定の答えを出していた。
 私は、自分の考えがあまりに荒唐無稽すぎて、明らかに妄想しているとわかっていた。一方で、誰も気がついていないことに自分一人が気付いたというつまらない自尊心を慰めていた。相反する二つの心は、お互いに自己主張を繰り返して収集がつかない有様だった。そして、喘息の悪化にひきづられるように妄想の力が強くなってきていた。
 妄想を抱いた私の考えはこうだった。金融市場に特定の時期、特定の金額を投入することで民衆をコントロールできるのなら、アメリカ合衆国は資本家が有利な社会を作ることができる。資本主義とは、超大口資産家がそれ以外の民衆の投資行動をコントロールすることで、現在の地位を維持するシステムなのだ。しかし、それも永遠ではない。アメリカ合衆国の資金の源泉は、カリフォルニア州フォートノックスの駐屯地内にある金庫に保管された世界中から集めた金塊だ。しかし、それは過去、アメリカ国民も含めて一度も公開されたことはなく、おそらく過去の国債の乱発ですでに使い切っているだろう。世界がこのことを知ると、アメリカ国債は一瞬にして紙屑となる。そうなる前に、アメリカ国債を然るべきタイミングで暴落させ、連鎖倒産を起こして世界恐慌の引き金を引く。景気悪化の影響は中国に波及し、過去の中国の歴史からいくと伝統的に国内不安が高まれば対外紛争を仕掛けるはずだ。そこで、台湾に接近して紛争を起こすようにけしかける。台湾紛争が始まれば、アメリカは中国が大量に保有するアメリカ国債への弁済を停止させる。そして、アメリカ国債の負担がなくなったアメリカは、軍需景気と国債負担の減少で奇跡のV字回復を遂げる。
 それでは、もし世界恐慌が21世紀に起きたら日本社会はどうなるだろうか。考えられる一番可能性の高いシナリオは、激しいインフレーションが起きるというものだ。前回の世界恐慌では物価が下落するデフレーションが起きたが今回は違う。世界規模で感染症が蔓延した場合、歴史上インフレーションが発生している。中世の暗黒時代であっても社会福祉をある程度行わないと国が保てない。そのため、福祉政策のために大量の資金が市中にで回ることになる。市中に資金が投下されれば経済は活性化し、物価が上昇するインフレーションが発生する。これだけなら、決して悪い話ではないように思える。しかし、どれくらいのスピードでインフレが発生するのだろうか。終戦後の混乱期のハイパーインフレーションは5年で70倍と言われている。そんな事態が起きれば社会は、私達は破綻してしまう。
 だけど、そいつとの問答は、もっと暗く深い問いかけだった。この世界は一体なんなんだ。背筋が冷えた。
 私の視界には、ニヤついたそいつの口のような逆三角形が残像として視界に焼き付いていた。
 そして、気がつくと、私は一人薄暗い自分の部屋にいた。

 私は、弁護士をしている先輩にアポイントメントをとった。喘息と仕事、そして溢れ出る妄想の三つの悩みを誰かに聞いてほしかったからだ。先輩は、快く私との面会時間を割いてくれた。先輩の事務所は、街の中心部からやや外れた住宅地と大型ショッピングモールが併設されているエリア、いわゆるベッドタウンに位置していた。事務所は、歩いて5分ほどある小さなビル一棟で、外壁がコンクリート剥き出しのガラスを多く配置されたデザイナーズ建築で、ドブネズミのようにボロボロになった私には眩しかった。事務所の中を通され、黒い革張りのソファに座る。見た感じ、法曹家とは思えないほど書類が見当たらない。あるのは、大型のモニターが3台と、いくつかのPCだった。そうすると、上等の背広に身を包んだ先輩が笑顔で現れた。事務所内でキョロキョロとしている私に先輩は言った。
「書類や本がないだろ。基本的にペーパーレス化を進めているんだよ。事務所にいる人間も僕と秘書だけで、他の従業員はリモートワークさせているよ。それにしても久しぶりだね。横浜で一緒に仕事をして以来か。」
 あのとき、先輩と私はチームでプロジェクトをしていた。あの頃の私とは大違いだ。
「無理を言ってお時間を割いていただき、ありがとうございます。咳をしていますが、コロナではありません。持病の喘息ですのでご安心ください。」
 先輩に、手土産としてハワイで有名なコナ産のコーヒー豆と街で買った人気の焼き菓子のセットを手渡した。それから、手始めに今の仕事場の話を当たり障りのないあたりで話をした。先輩は、以前に比べて焼けて太っており、一緒に働いていたときと比べて輝いてみえた。話をすればするほど、先輩と私の境遇を比較してしまう。先輩は人生をまさに輝いていて、一方の私は先行きの見えないドブネズミだ。
 黒い革張りのソファに二人とも座る。程なくして、事務員の女性がコーヒーで満たされた二つのカップを運んでくる。上品なコーヒーの香りが流れてくる。どうやら、安物のインスタントコーヒーとは無縁な世界のようだ。
 しばらく、先輩の自慢話に耳を傾けてから、ついに私は頭を悩ませる妄想の話を切り出した。
 先輩に、私が作成したデータの一覧表とニュースの記事、私が作成したプログラムの概要を説明した。先輩は、私がプログラミングの技術を持っていたことに驚きつつも、私が説明する話に最初は耳を傾けてくれた。最初だけは。しばらく話をして、先輩の目に悲しみと蔑みが入り混じった色をしていることに気がついた。私は、悲しく惨めに感じた。先輩は、しばらく思案をしてから口を開いた。
「正直いうと荒唐無稽すぎるな。僕に話をするんじゃなくて、事件記者に持って行くべきじゃないかな。」
 先輩は、抑揚のない声でそう言った。私は、先輩から容赦なく切り捨てられるのを感じながら言い返した。
「前回の世界恐慌のときはデフレでした。しかし、今回の世界恐慌が起きればインフレが発生します。その時、先輩の会社は保っていけますか。」
「僕の会社は、物価が3倍になっても大丈夫だよ。」
 先輩の切り返しは見事だと思った。そして、その言葉は私の心を深く抉った。
「先輩はそうかもしれません。病気の私には時間がないんです。」
 先輩は、少しだけ目を見開き、同情を込めて言った。
「お子さんは何歳になったっけ。」
 先輩と取引先から帰る途中、大きな川の土手を二人で歩いたのを思い出した。子どもが生まれるとき、先輩は誰よりも喜び祝福してくれた。そして、先輩は今と同じ眼差しで、会社を辞めて事務所を立ち上げること、その事務所に私に来ないかと言ってきた。私は、子どもが生まれたばかりで、先輩とともに冒険する勇気がなかった。そして、先輩は退職して成功し、私は喘息に蝕まれた。
「5歳になりました。」私は、当時の感情を振り切るように淡白に答えた。
「そうか、アドバイスしてあげられることがあるとしたら一つだけある。持っている資格を無駄にするな。たとえ、独立したとしてもね。」長い話で、すでに生ぬるくなったコーヒーに半分ほど満たされたカップを抱えて、先輩は変わらず悲しげな目で言った。
「ありがとうございます。肝に銘じておきます。」
 そう言って、事務所を出ようと荷物を片付けていると、先輩が帰りがけの私に雑誌のコピーを手渡した。先輩が暗号資産について解説している経済誌の記事をコピーしたものだった。写真の先輩は、自信に満ち溢れていた。
 私は、家に帰ると先輩からもらった雑誌のコピーをゴミ箱に捨てた。
 私には味方はいないのだと思い知らされる。

 人は絶望に触れると、気が触れるという。
 まさに、今の私にぴったりな言葉だった。悪化する喘息、先行きの見えない仕事、インフレが迫る未来、どれをとっても、私の未来は黒に近い灰色だった。私は、家族を守るために取りうる行動を考え尽くして、袋小路にたどり着いた。私の未来は絶望だった。そんな中、私は絶望から逃れるためにもがき、誰かに認められたかったのかもしれない。目の前の妄想を真実と思うことで目先の安心感を得たかったのかもしれない。最終的にアメリカが世界恐慌を起こす陰謀を練っているという妄想に飛びつき、その考えに浸ることを楽しもうとした。
 私は、MacBook Airを起動してしばらく調べ物をしてから、二人の人物へメールを打った。
 その内容はこうだ。
 「世界恐慌が迫っています。そのときがきたときあなたの力が必要です。」
 そして、喘息の発作はますます酷くなった。
(つづく)

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