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牧師夫人の徒然なるままに(六九一) 「神のみこころに添った悲しみ」(Ⅱコリ7・10)

 何が原因だったのかは定かではありませんが、その日の私は起床時から、高ぶっていました。水曜日は礼拝の日。一連の家事を終えて、できたら、ディボーションの日課も済ませて臨みたいと、夫にもとげとげしい指図をして、愛犬にまで、かなわぬ要求を押し付けて、その結果、ようやく時間に間に合うぎりぎりに家を出ることが出来ました。
 教会への細い道を入り、駐車場まで十メートルという所で、熟年の男性が運転する車と出くわしました。その方はつんと顎を上げて手ぶりで私にわき道に入れと命じました。彼のすぐ横は教会の駐車場です。そこにバックしてくれたら、簡単にことが済むのに、彼は怖い顔で「あんたが曲がれ!」と命令しました。仕方がないので、私はそれに従いましたが、心の中で、私の辞書にはないはずの罵り言葉を口にしていました。
 その後、礼拝の司会中も、何度もその時のことが心を巡りました。顎と手ぶりで私に命じたその行為を私は深く根に持っていました。
 そんな思いで司会をしていたからでしょうか。礼拝の途中で突然私の歌声が切れてしまいました。歌えなくなったのです。その時に私はようやく「主の囁き声」を聞きました。悲しみとともに、悔い改めに導かれました。私は何故、かくも頻繁に高慢になるのでしょう。
安食道子

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