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牧師夫人の徒然なるままに(六九九)「神の御手は幸いを下し」(その2)(エズラ8・22)

 私たちの創造主は、いついかなる時にも信じる私た ちに幸いをくださいます。その確信はとても尊いので すが、信じてさえいれば何をしても益になるのかとい うと、決してそうではないと思います。 

 私がKBI(関西聖書学院)在学中に非常に才気あ ふれる同級生がいました。彼は、ある冬にひどい風邪 をひきました。止まらぬ咳、高熱に嗄れ声、明らかに その症状は病気でした。でも、彼は「僕は風邪などひ いていません。主が言われます。サタンよ、去れ!」 そう吹聴し続けました。私はそんな彼の宣言に疑問符 をつけていました。「どう見ても風邪をひいているじゃ ないの!そんな宣言は一人で心にしまっておいて!」 

 二十年も前になるでしょうか。ふとしたきっかけで 知り合った方に伝道をしておりました。ようやく教会 の礼拝にお誘い出来ました。喜んでご主人もお連れに なって出席してくださいました。ところが、その日の 礼拝は特別な礼拝でした。聖霊さまの御業によって、 霊の賛美が奏でられ、クリスチャンにとってはとても 恵まれた礼拝だったでしょうが、お誘いした方と御主 人の目には異様な集団と映ってしまいました。彼らは、 それ以来教会の敷居をまたいでくれませんでした。 

 信仰の確信は大切です。でも、パウロが述べたよう に未信者の躓きになる場合には配慮すべきでしょう。

安食道子

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