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牧師夫人の徒然なるままに(六四九) 「命を学ぶ」
日本人にとっては、聖書の「贖い」「全焼の生贄」などという屠殺を伴う教えは、理解し難いものがあるようです。私も、旧約聖書を読みながら、長らくこの問題を回避し続けました。幕屋で行われた贖いについては目をそらすことで深入りしたくないと。
チャペルの後方の壁に、W氏の描かれた三匹の羊の絵が飾ってあります。なんとも愛らしい姿です。私はその絵が飾られて数日後に、まるで詩編119・130の御言のように光の差し込む経験をしました。じっと三匹の羊を見つめていた時です。真ん中の小首をかしげた羊が、突然祭壇に屠(ほふ)られる姿が目に浮かびました。その時に、こんなにかわいい羊が、命を捧げて罪を贖ってくれたのだと、突然に分かったのです。その重さが閃光のように私の鈍い感性を刺し通したのです。ましてや、子羊であられたイエスさまが、差し出してくださったお命はいかばかりでしょうと。
それ以来、私は贖いの命について考え続けています。私に今、もし愛犬のリーバイの命を差し出せと命令が下ったらどうでしょうか。優しい目でいつも私に問いかけるこの命を断つことなどとてもできないと思います。余りに残酷です。小さな犬にさえそう思うのです。だからこそこの想定は、イエス様の贖いが如何に大きな代償であったかを教えてくれました。
安食道子
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