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メッセージ要約 2024.3.31 「わたしはよみがえったではないか」

〇ヨハネの福音書11章25節

 イースターは日本でも定着してきたが、残念ながら多くの人がイースターの本当の意味を理解していない。今日は、イースターはみなさん一人一人に向けられたものであることを分かち合いたい。

 私達が最も恐怖を覚える出来事は、死である。多くの人は、恐怖から死について考えないようにしている。しかし、死は必ず訪れる。私達は、死の恐怖に向かうとき、何に信頼すればよいのか。聖書は、死の問題の解決は、イエス・キリストの十字架の救いにあると明確に答えている。私達が十字架の救いに信頼することができるならば、死への恐怖は和らいでいく。

 十字架の救いについて、3つのポイントから話していきたい。

1.死の解決を何に見出すか?

 日本人の多くは、死んだら無になると考えている。その他、「生まれ変わる」とか「星になる」と考えている人もいるが、どれも根拠の無い感覚的なものである。それらの考えは、死の淵に立たされたとき、支えになってくれるだろうか。

 聖書は、アダムとエバが罪を犯して以来、死が人の人生に入り、その罪の性質は人類に受け継がれていると教えている。罪があるから神との関係が壊れ、人は死んだ後、永遠の滅びに向かう。

 聖書の罪の基準は、一般的な罪の基準よりも広い。例えば、人は定期的にうそをついてしまう存在であるが、うそも罪である。また、表に出さなくても、心の中で思うことは罪であると言っている。

 私達は滅びに向かう存在であったが、イエス・キリストが、罪の問題を解決するために、この地上に来てくださった。

2.死の先にある希望

 イエス様はその生涯の終わりに、十字架で私達の全ての罪を背負って死なれ、3日目によみがえり、罪の問題を解決してくださった。

 では、どうすればイエス様の救いを受け取ることができるのか。聖書は、信仰によって信じることであると言っている。「誰でも、イエス・キリストの十字架の死と復活が、自分の罪を解決するためであったと感謝して受け取るときに、罪が赦されて永遠のいのちを得ることができる。」ということが聖書の中心メッセージである。救いとは、私達を愛する神様からの一方的なプレゼントであり、十字架は、神の愛があらわされた場所である。この十字架の救いこそ、私達の死の問題の解決である。

3.再会の喜び

 イエス様は復活により、死の力を打ち破ったこと、そして、人は死んだ後、天国での復活の希望があることを、私達に示した。そのことは同時に、私達が愛する人と天国での再会の希望があることを意味している。私達の教会も、神の家族を先に送り出してきた。私達は、「この地上でもっと多くのことを一緒にしたかった。」「なぜあの人は死ななければならなかったのか。」などと思うかもしれない。しかし、そのときイエス様は、私達の心に「わたしはよみがえったではないか。」と語りかけてくれる。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」〈ヨハネ11:25〉

私達は、このイースターで、イエス様が復活をもって、私達に天国の希望をあたえてくださっていること、そして愛する人達との天国での再会の希望があることを、もう一度受け取りたいと思う。

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