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礼拝メッセージ要約 2023.4.2 「金持ちの青年に見えなかったもの」

〇聖書箇所:マルコの福音書10章17節―31節

 緊張をほぐす方法の一つとして「手のひらに人という字を書いて舐める」というおまじないがあります。このおまじないは昭和から平成まで幅広い年代に知られており、心拍数が安定するなどの効果があるとされています。しかし、効果がなかったり、手が汚れていたりすると逆効果になることもあります。私たちは人生の中で様々な緊張や不安を覚えることがあります。今日もある不安を抱えた若者がイエス様の元にくる場面です。

今日はマルコ10章17−31(朗読17-27節)から「金持ちの青年に見えなかったもの」という題で3つのポイントでメッセージしていきたいと思います。

1.行いの限界

 彼は若くて裕福で社会的に成功していましたが、永遠の命を得るためには何をすればいいのかわかりませんでした。イエス様は彼にモーセの律法を守っているかどうか尋ね(19節)、彼は自信満々に少年の頃からそれらを守ってきたと答えました。

19節 「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」

 しかしイエス様は彼に隣人を愛するという教えの本質を教え、持ち物をすべて売って貧しい人たちに与えるように言われました。これは彼に行いでは救われないということを気づかせるためでしたが、彼はそれができずに悲しみながら立ち去ってしまいました。彼は自分の富にしがみつき、信仰による救いを受け入れることができませんでした。(19~21節)

2、霊の目を曇らせるもの

 彼が立ち去ってしまった理由についてこう書かれています。

22節、「彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。」

 彼の霊の目を曇らせていたのは富でした。青年の悲劇は所有している富が彼の心の目を塞いでしまい、イエス様によりたのむことができなかった点です。
 そして23節イエス様は言います。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」さらにそのことを強調するために25節、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」とおっしゃいました。

「らくだが針の穴を通る」という言葉は当時の格言であり、非常に難しいと言う意味です。

 イエス様は、富んでいる人が神の国に入るのは難しいと言われた理由を説明されました。それは、富を持つ人は自分自身を誇り高ぶり、神様により頼まなくなるからです。自分で何かを成し遂げてきたと思い込み、神様により頼むことを弱さと見なすからです。

 彼のように富を手にした人の多くは自分の努力によって成功を手にしたと思っているものです。確かに努力なくして成功を手にすることはできなかったでしょう?

しかし成功とは果たして自分の努力だけで手に入れることができるものなのでしょうか?

 しかし、成功は自分の努力だけでは得られないものです。ラインホルトニーバーという学者は、人生の95%は自分の力ではなく、神様の配剤によって決まると言いました。私たちは生まれた時代や国、両親や環境などを選ぶことができません。それらは神様が私たちに与えた恩恵です。(※神の配剤=神は物事を適切に配する意)

しかし、世界には不平等な状況があります。インドのダリットのように、人間として扱われない人たちがいます。彼らは路上で生まれて路上で死んでいきます。彼らは愛されることもなく、助ける人もいません。

 私たちはなぜ恵まれた環境で生まれたのでしょうか。それは神様が私たちに与えた使命です。神様は私たちに富の良き管理者となって、苦しむ人たちを助けることを望んでいます。

 富は神様から離れる原因となることがあります。私たちは富を得た時に、それが神様の恵みであることを忘れてはいけません。私たちは神様に感謝し、正しい管理者として歩む者でありましょう。

3.神にはできる

 金持ちが神の国に入ることが難しいと聞いた弟子たちはどのような反応をしたでしょうか?

26節 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と尋ねました。

 彼らは当時のパリサイ人たちの教えに影響されていて、富は神の恵みの証だと思っていました。しかしイエス様は彼らを見つめて、言いました「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(27節)

人は自分で自分を救うことができない。しかし神様にはおできになる。高慢にならず神の前に謙る時その恵みに預かることができるということです。救いは人の行いではなく、神の恵みによって与えられるものです。だから私たちは自分の行いを誇るのではなく、水は高いところから低いところに流れていきますが、同じように神様の恵みは私たちがへりくだる時に私たちの元に流れてくるのです。

ヨーロッパの街にあるキリスト像は、跪(ひざまつ)いて見上げると神々しく慈愛に満ちたみ顔が見えるという噂が広まっていた。しかし、遠くから来た青年は、立って見ても感動しなかった。そこにいた少年が跪いて見るように勧めたところ、青年は噂通りの美しいイエス様の眼差しに出会いました。この話は、へりくだる時に神様の恵みを受けられることを教えてくれてます。

私たちが高慢になる時、神様の恵みから遠く離れてしまいます。
自分で何かを成し遂げられるから神など必要ない。そう思うときその人は今日の青年のように救いから遠ざかってしまいます。私たちは神様の前に何者でもない 一人の罪人です。人が神様の前にへりくだる時、「イエス様の愛の眼差しに出会い、救いの恵みに気づくことができるのです。

またクリスチャンになっても高慢になる時、神様が与えてくださっている日々の恵みも見えなくなってしまいます。私たちが得たものは神様が与えてくださったものです。誇るべきことなど何一つありません。そのことを覚え感謝しへり下り歩みましょう。   (T.N)

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