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「牧師夫人の徒然なるままに」(八六一)「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」 (ヨハネ17・20)

 イエスさまが逮捕される前に弟子たちに話されたこと、また、お祈りされた言葉は、深く心を揺さぶります。特に大祭司の祈りと呼ばれるヨハネの福音書に記されたお言葉は読む度に心にひしひしと迫り来るものがあります。

 聖書の言葉は読む度に新しい発見を与えてくれます。言葉に命があるというのはこういう事なのかと思わされます。残念なことには私たちの時代はイエスさまのお語りになった時から、既に二〇〇〇年以上も経過していますから、その言葉を読む私たちも、時として「過去のことば」であるかのように思ってしまいがちです。

 さて、先日、冒頭の言葉が新鮮な響きで私の心に迫ってきました。ヨハネの福音書の一七章は絞り出すようなお祈りです。イエスさまご自身のための祈りから、弟子たちのための祈り、そして、その弟子たちから生まれる教会のための祈りへと続きます。目前に迫った死を自覚されてのいわば遺言としての祈りです。

 私の心を揺さぶったのは、イエスさまがこのお祈りの中で、二〇〇〇年後に生きる現代人をも心に掛けていてくださったのだと分かったことです。脈々と受け継がれてきたみことばを信じる私たちをも含めて、とりなし祈ってくださっていたのです。

安食道子

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