牧師夫人の徒然なるままに(六七九) 「神のわざを行うために何をすべき?」その2 (ヨハネ6・28,29)

 一九世紀後半から二十世紀前半にかけて活躍した牧師・神学者のF・B・マイヤー師は言いました。「私たちは自分がクリスチャンであることを大文字で表現する必要がある。周りの人たちがそれに気づくのに長い時間がかからないためである。私たちの生活そのものが隣人に対するメッセージとならなければならない」
 先回にS教の信者さんの熱心で親身な行為に、果たして私たちクリスチャンが勝ることが出来るでしょうかと書きました。
 イエスさまは行為に先んじて「信仰」を解かれました。信仰義認はキリスト教の大変に重要な教理です。イエスさまの贖いを受け入れることで、私たちは御国への切符をいただけます。しかし、それで終わりになってはいけないのです。
 イエスさまの深い愛に触れた時、私たちの心はイエスさまのご愛、憐れみと一体化できるのではないでしょうか。十字架の本当の深みにたどり着くなら、御霊の実への思慕はいや増しに募るのではないでしょうか。イエスさまのご愛は、誰の愛よりも勝ります。それを受ける私たちが、他宗教の人々の行為以上に、親切ややさしさ、憐れみ、共感を示せないはずはないでしょう?これは単に理屈ではないはずです。

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