「牧師夫人の徒然なるままに」(八一九)「地上で繋ぐ事、解く事」(マタ18・18)その1
教会を天国の様に清い場所と思い、クリスチャンの関係こそが愛に彩られた理想的なものだとするなら、私たちは幻滅を覚えてしまうのではないでしょうか。
皆さんは、どんなクリスチャン仲間とも、トラブルなく反発もなく過ごしておられるでしょうか。あの人とは馬が合うけれど、どうしても合わない人もいるということはありませんか。そこにクリスチャンとしての根幹を揺るがすような原因があるわけではないのですが、なんとなく「合わない」という現状です。
表題に挙げたみ言葉は、この何年か私には重圧に思われていました。すべての人とうまくやりたいという願いとは裏腹に、そのようにできない自分を見出して落ち込んでしまうのです。地上でのうまくいかない関係が天にまで繋がれてしまうのかという不安です。それならば、何とかしてこの世にいる間に修復をして、万人と仲良くしなければならないのではないかという迫りと焦りがありました。
最近になって、文脈から、冒頭のみ言葉は「救い」に繋がるか、「救い」を拒んで解かれるかという信仰の根幹にかかわる事についてだと、教えられました。
人生に馬の合う人合わない人がいてもいいのだと思います。相手がクリスチャンであればその関係の修復は天国で全うされることで良いのではないでしょうか。
安食道子
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