牧師夫人の徒然なるままに(六九四)  「嗚呼、歴史は繰り返す」(ユダの王たち)

 列王記や歴代誌を読んでいると、三千年以上も前から、人類の考えること、思うことはあまり進歩がないなあという感想を持ってしまいます。
 そもそも、人類の霊的な部分、信仰心などは、すべての人に振り出しから育成されるもののようです。進化論では、まるで人が猿レベルの知性を徐々に進化させて発展してきたかのように説きますが、その結果、人は三千年前と比べて、いったいどれだけ進歩してきたと言えるのでしょうか。
 比較的信仰心の篤かった王、例を挙げるとアサ王やヨシャパテ王が出現したからと言って、それが子孫にそのまま受け継がれはしませんでした。いまだに人類の最初の人アダムの知能指数を越える人は現れていないと提唱する人もいます。霊的、知的分野では、人は創造以来、常に赤ん坊時代を起点にして振り出しからの発育を強いられているように見えます。
 それなのに、あたかも三千年前の人が現代人より劣ると評価してしまうのは、科学や工学、目に見える形而下の文化が肥大化した結果の驕りでしょうか。
 確かにダビデ王はスマホを持っていませんでした。でも、彼の知的な采配、信仰心、人情、そして犯してしまう罪なども、次代の人類に、より高められ改善されて受け継がれたと、果たして言えるでしょうか? 

安食道子

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