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大角牧師の今日も"舌"好調 第3回「天国の扉」

 田舎に住んでいたからでしょうか、子どもの頃、季節を感じる匂いがありました。その匂いをかぐと「あっ、春が来たぞ!」とか「もう秋になったんだなあ」と季節の変化を感じたものです。ありきたりの匂いであったと思うのですが、私には特別な匂いに感じられたのでした。
 10月になると我が家の庭先で芳香を漂わせる金木犀の香りもまた、私にとって特別な匂いです。愛娘の葬儀を済ませて戻った我が家の玄関先に爛漫と咲き乱れていた金木犀。甘く芳醇な香りの中、娘が旅立っていった天を見上げると、10月の空はどこまでも高く、また青く澄み切っていました。「あそこにあの娘はいる。そして、あそこでまた会える・・・」その日から、金木犀の香りは、私の中で天国とつながる特別な香りとなったのです。

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 父と母を看取ってきたにもかかわらず、また天国を信じていたにもかかわらず、どこかで死を他人事のように思っていました。というより、死を意識的に遠ざけていたのかもしれません。
これは自らや家族が死に直面した時の共通の心理でしょう。医療従事者でさえ、心の奥底では死から逃れようとしています。ある医師がこんな実験をしました。治る見込みのある患者群と全く見込みのない患者群を選び、看護師がどちらをどのくらい訪室したかを比較したのです。


 その結果、回復の見込みのある患者を訪れる回数の方が圧倒的に多かったそうです。臨終になると医師が家族を追い出し、人工蘇生器や点滴セットを持ち込んで必死になって心臓マッサージをするのは、自らの死を恐れる気持ちを防衛しようとしているからだと分析する心理学者もいます。


 精神科医でクリスチャンであった平山正美氏は、「現代は若者志向で、いつまでも若いこと、健康であることが美徳である社会である」と言いました。それは、「老いや死は隠されなければならない存在」だからです。確かに死は恐れられ、また隠されています。けれども、私たちは誕生の瞬間から死に向かって歩み出しています。誰も避けることはできません。いのちは死のうちにあるともいえるのです。

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 私たちが死を恐れるのは、耐え難い痛みへの恐れ、罪責感から来る死後への不安(負い目やこのまま死んだらどうなるのかという恐れ)、そして愛する者・親しい者との別れのつらさがあるからです。こういった問題を扱うのがターミナル・ケアです。物理的、心理的に患者の恐れを取り除き、目の前の死を心穏やかに受け入れてもらおうとするもので、社会の急速な高齢化に伴い、その必要性はますます高まっていくことでしょう。


 けれども、それはあくまでも終末期の医療であり、死に臨んだ人々へのケアです。人生の最後をどう迎えるかであって、死の彼方への答えを与えるものではありません。私が見上げた空の向こうには確かに天国がありました。死は悲しい一時的な別れの時ではあっても、それは天国への扉、永遠の世界への入り口なのです。天国の確信こそが、死の恐れに打ち勝ち、その悲しみを乗り越えて、この世の馳せ場を疾駆する力を与えるものです。中世の賢人のように「死を覚え(メメント・モリ)」つつ、扉の先にある世界を見つめながら歩んでいきたいものです。

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