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牧師夫人の徒然なるままに(六六二) 「偶像礼拝は紙一重」

 皆さんはある日突然に人の評価を変えてしまうことはありませんか。日ごろごく平凡なお付き合いをしていた人が実は有名人の親族だったとわかった時とか、昨日まで夕食の献立を立ち話していた相手が、お料理教室の先生だったと知った時などです。そんな時の心の微妙な揺れが、実は私たちの心に潜む偶像化の危険でもあると言えるのではないでしょうか。
 出エジプト時代に、荒れ野でモーセが青銅の蛇を掲げた事件がありました。(民数記二一章)その青銅の蛇自体は何の力もないし、偶像でもありませんでした。神が求められたのはそれを「仰ぎ見る信仰」でした。実はこの青銅の蛇は長らく保存されていたそうです。そして、約束の地にまで持ち込まれました。そして、案の定,偶像視されるようになっていきます。ヒゼキヤ王の時代には、この蛇は「ネフシュタン」と呼ばれて人々がその前で香をたくほどの偶像になっていたと言われています。
 私たちは心の中に、何かを偶像化したいという思いを持っているようです。日本人はもしかするとその思いがDNAの中に組み込まれてしまっているのかもしれません。しめ縄を付けた大木や大岩、死後に英雄視されて神社に祀られる人、気を付けていないと、それを受け入れてしまう弱さがあるのです。

安食道子

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