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牧師夫人の徒然なるままに(七二二) 「自分の十字架を負って」Ⅰ(マタイ16・24)

 信仰生活が半世紀に及んでもなお、私はこの「自分の十字架」について思いめぐらし、さらには格闘している自分の姿を見ています。自分の十字架とはいったい何なのでしょうか。
 イエスさまがカルバリの丘で成し遂げてくださった十字架刑は完璧な贖罪でした。私たちが負う十字架はその主の御業に何かを追加するための物ではありません。主の成されたことはもはやどのような代価も必要とされない完ぺきな御業だったからです。
 では、いったい私はどんな十字架を負うのでしょうか。負わなければならないのでしょうか。
 救いを受けた頃、私はあたかももう罪を犯さない人になれるかのように思っていました。
 やがて、私は知りました。やっぱり自分は罪を犯してしまう存在なのだと。今、私は自分の負わなければならない十字架は「自己中心」だとわかってきました。私が犯すすべての罪の源はその一点にあるからです。
 私の負っている十字架は決して軽くはないけれども、イエスさまの大きな十字架の愛の許に身を寄せる時に「主ひとり」(新聖歌三七三番)の賛美歌が唇に溢れます。三節には「己は死んで主おひとりが私の身を支配してくださる」とあります。この告白こそが自分の十字架を負いつつ、私が目指す一番の報いのことばです。

安食道子

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