自分の当初見解の正しさなんて「けっこうどうでもいい」

生まれも育ちも価値観も知識も所有する情報も立場も異なれば意見が違うのはむしろ当然のことである。

仕事上や趣味、電話やネット上等、他人と話し合う機会は多い。その中でも問題になりやすいのが「異論への対処」である。同意見(だと錯覚しているのを含む)の間は問題は表面化しにくいが、異論を唱える相手、特に高圧的、攻撃的、断定的に強く自己主張する相手を見るたびに思うことがある。

「そんなに怯えなくてもいいのに」

こちらの言うことを一切聞かずに全否定し暴走する相手を苦手とする人は多いだろうが、私はむしろ「得意」というか「くみしやすい」とすら思う。じっくりと腰を据えてこちらの言い分を認めるところは認め、弱いところをピンポイントで狙ってくる相手のほうがよほど「厄介」だ。

まあ厳密には「建設的な話し合い」であれば勝敗など存在しない。両者の視点の違いを話し合い認めあう。場合によってはより良い意見が見つかる。少なくとも相互理解を目指すのが建設的な話し合いだ。

だが、こと「暴走する相手」に対処するとどうしても勝ち負けっぽくなってしまう。

んで、おそらく暴走する相手への対処のほうが読者人気が高いだろうという打算のもといくらか最近アップデートした内容を書いてみる。

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話し合いにおける戦略・戦術・戦法について

①戦略「異論に臨む態度」の正しさ
②戦術「主張の論理構成」の正しさ
③戦法「意見主張の内容」の正しさ

これらは別物だと理解されたい。①>②>③となる。

①暴走する相手はこれがすでにおかしい。文字通り「お話にならない」相手だ。
言葉に似た鳴き声を発するが、こと議論においては人間ではなくて動物や宇宙人、狂信者の類と変わらない。そして議論によってはしばしばこうなってしまう人間は多い。

まともに相手の言い分を理解しようとするとこちらもおかしくなる「クトゥルー知識」のようなものだ。
こういう相手をくれぐれも論破しようと思ってはならない。論破しようにもそもそも「論理が通用しない」ので不可能なことである。

相手の主張が異常ならば、かならず矛盾がある。
実は基本的な対応に変化はない。「相手の言葉で相手を攻撃する」のが基本だ。

で、こういう相手は矛盾を指摘されても無効化して暴れてくるわけだが、それを公開討論で第三者衆人環視の中でやればよい。どちらかといえば相手を論破するというよりもフィギュアスケートのように「第三者の賛同を得る」スタンスである。相手がわからずやであるほど相手は不利になっていく。それでも相手はわめき続けるだろうが、多数の第三者を味方につけていれば恐れることは何もないのである。

相手がどう思うかは相手の自由(領域)、自分がどう思うかは自分の自由(領域)だ。ここまでなら互角である。ゆえに「第三者がどう思うか?」を取りに行くイメージだ。

「生まれも育ちも価値観も知識も所有する情報も立場も異なれば意見が違うのはむしろ当然にことである。また分かり合うこと自体が難しい。とはいえその努力は無駄ではない」

この大原則を理解しておくことだ。

②論理構成がおかしい相手。もっとも論理学が通用するのはこの相手だ。最近相方への授業がコレだったので一部掲載する。

ハナー「そもそも論理的ってわかってるかい?」
相方「すじみちがとおってること?」
ハナー「おお、いいね。すじみちが通るってことは『なにか』と『なにか』をつなげないといけないんだけどなんだかわかるかい?」
相方「原因と結果?」
ハナー「いいね。理由と結論とか根拠と主張とか、まあそういうのを結び付ければいい。実はこれで論理の基礎は実はこれだと思っている。要は前提や理由があってから主張したい結論があることだ。」
相方「三段論法とかじゃなくて?」
ハナー「厳密な論理を考えたいなら、必要条件十分条件とか対偶も必要と言えば必要だけど、日常会話レベルならそこまでいらないよ。というかそこまで考えてたら日常会話に支障をきたすよ(笑) 『おはよう、今日は良い天気ですね』『客観的証拠がないからその発言は論理的ではありませんね』とか言われたくないでしょ?」

単なる挨拶とか何かの好き嫌いを述べることにまで証拠がいるとは思わないですなぁ。

攻撃したい場合は「本当にそうなの?」と展開(つながり)を責めるか、「それだけなの?」と前提の不足を責めることになる。

③意見主張の内容の比較。これが本来建設的な議論で交えるものだ。①②ができてるのが前提になるわけだが。とりあえず自分の最初の意見や主張が正しいかどうかは「けっこうどうでもいい」。まあ正解であるに越したことはないが(笑)。

なぜか?論理的態度でいえば「自分の現状の意見はこれだ。こういう知識や情報に基づいているよ」となる。ところで私もあなたも人間だ。人間は多かれ少なかれミスや見落としをするものだ。自分の見落としていた情報や視点がでてきてたときに自分の意見を変えることができるのが「論理的な態度」である。

話し合いの結果、他人の意見や情報を確認しながら「より正しい結論」に至るのが話し合いの目的であって、自分の当初見解の正しさなんて「けっこうどうでもいい」のだ。間違ってたら直す。それだけだから。

だから自分の意見にこだわる「攻撃的」「高圧的」「断定的」な人間はダメダメなのだ。この柔軟な意見変更が極めてやりづらくなってしまう。彼らはまっとうに話し合う自信がないゆえに虚勢を張ろうとしてそういう態度をとるのだ。「いや、違う!自分の意見が絶対に正しいから俺は強気なのだ!」…いやいやいや、むしろ絶対に正しい意見ならそんな強い言い方をする必要がないでしょうに(汗)。言われる相手が素直に聞きたくなるようにやさしく言えばいいんじゃないかなぁ。

彼らがやってるの話し合いではなくて「喚きあい」なのだろう。そして私は話が通じない相手とは話さないことにしている。

その意味では私とは異なる意見をちゃんと理論構成している方々が大好きだ(笑)。私に新たな視点を与えてくれるのだ。

多様な視点や証拠を集めながら、何を重視して何を切り捨てるか、またその度合いはどのくらいが最適なのかと建設的に話し合うのは実に楽しいものだ。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。