自己中心主義でよろしい!

世間一般で「ジコチュー」といえば子供っぽくてわがままな問題児のイメージである。気に入らないことがあったらすぐに怒ったり、不機嫌になる。自分のことしか考えず、感情制御ができずに周囲に迷惑を振りまいてしまうイメージだ。

私は自己中心主義は当然だと思っている。(多少言葉遊びだがw)思考の中心にいるのは「思考する自分」だ。哲学者に言わせれば「我思うゆえに我あり」だし、ハナー版にすると「我考えるゆえに我なり」である。私にとっての「私」は世界を知るための「観測の窓」であり、世界に働きかける「実行者」であり、場合によっては「実験観察対象」ですらある。

世間一般で批判されているジコチュー、「自分のことしか考えない輩」は「自己焦点主義」と言いかえるべきだろう。

自分を中心(起点)として物事を考えるのは何も悪いことではあるまい。自分にしか焦点を向けず、思考を完結させているのが悪いことなのだ。自己焦点主義者にはさらなる成長や発展はほぼ望めない。自分を思考の起点とした後、そこからどれだけ視野を広く持ち、周囲への思考を広げていけるのか?これが大事なことだ。

私の場合、能力の限界もあってまだまだ「周囲」を十分に広げきれてない。自分と良好な関係にある人々に可能な限りメリットを提供したいと常に思ってはいるのだが、あきらかに実力不足だ。

「自分を中心としたきれいで大きな円(縁)を描く」ことが大事なのだろう。良好な人間関係を広げ、自分の描く円の中に皆を入れていける。反対に皆の描く円に入れてもらうことで共同体は強く大きくなる。この円から排除すべきは、たとえば「職場の商品を窃盗するような」自己焦点主義で反社会的な輩くらいである。

昨今の無差別に人を傷つける輩はこの円の広げ方を知らなかったのだろう。自分が焦点で完結している彼らは単なる点である。彼らにすれば他人も点にしか見えず、かかわりを早急に持とうと直線を延ばす行為が
無差別な殺傷にあたる。曲線である円を緩やかに広げていくという選択肢はなかったのだろう。被害にあった方には落ち度はないわけで、返す返すも腹立たしいことだ。

良好な関係の友人知人を数多く作り、個々人が利益を共有できる円を描く。いくつもの円に入る人間はより安定する。この円が何重にも重なる位置を私は「人間関係の結節点」と称している。(要は顔が広く、多くの仲良しがいるということだがw)

「自分の能力を高めること」は人生の中でもかなり上位にくる課題だが、この結節点にいる人間は広義の実力を手に入れることができる。
狭義の実力は無人島で一人で生き抜くような、「完全なる自力」だが、現代日本ではよほど好き好まない限りそんな状況にはならない。広義の実力は「単に自分が希望したことをどれだけ実現できるか」ということであり、自力、他力は関係ない。結果がどうか?ということが問われる。反対に自己焦点主義者を見てみれば彼らが如何に孤立無援で「広義の実力」を持たないか、一目瞭然である。一般用語で言えば彼らには「良い友達がいない」のだ。「他人に媚びず、自分の信じる孤高の道を行く!」というとかっこいいが、「単に自己焦点のワガママで嫌われている」のでは天地の差がある。

【きょうのことば】「君子不器(君子は器ならず)」
孔子の言行録「論語」の「為政編」から。「偉い人は大きさや形の決まった器であってはならない。」ということだって。その言動、知識、働きはひとつに偏らず、限りなく幅広い

人間には変化を恐れる意識が少なからずある。慣れ親しみ、展開を予想しやすい世界から、何が起こるか予測しづらい世界にルーキーになって飛び込むのは勇気がいることだ。進学や就職などの喜ばしいことですら、時と場合によっては精神的重圧の要素になるのがその証左だろう。

一般には若者ほど新しいものに順応し、年長者ほど過去の栄光や実績に良くも悪くもこだわる傾向にある。過去の成功体験の呪縛というのは根強いものだ。好むと好まざるとに関わらず、世間や時代は変化していくので、人間が変化、順応しなければ置いて行かれることになる。

「ミーハーで新しいものにすぐ飛びつく」というと聞こえは悪いが、しがみつく成功体験がない若者の特権なのだろう。

表裏解釈を使えば若者には「しがみつく成功体験がないのだから、新しいところに飛び込んで勝負しなさい!」となるし、年長者は「過去の成功体験を自信として、思考を転用することで新しい世界に挑戦しては?」となる。

未知のルールや取り決めを覚える場合、その把握方法で個性が出る。例によって正解はない。人それぞれに自分のやり方を持っているとは思うが、私自身のやり方を考えてみると「見切り。割り切り。領域」の考え方と「量と質の情報収集」を使っている。

仕事では内部統制の文書だったり、趣味の世界では新しいゲームのルールだったりするわけだが時間が十分にあることは少ない。「やりたいことよりやれること」の割り切りが大事になる。

1回目の読み方は全体の流し読み。理詰めで読み込むのではなく、感覚で流していく。何度も出た単語や数式にチェックを入れる。この流し読みの目的は「情報の精査」ではなくて「精査する情報は何か?」を決めること。

2回目でその精査する部分を熟読する。ここは理詰めで理論的に。関連項目を探りながら精査する。内部監査でも読書でもルール把握でも基礎部分は同じだ。

2回読むうちで特に重要なのは「領域を定め、見きり範囲を決める」1回目の読み込みだ。「情報は貴重」それはその通り。だが「だから集めまくる」のは少し違う。あくまでも情報は判断材料と言う手段だ。活用できない情報はムダである。100集めて5しか活用できないよりは20集めて10使う方が効果を上げる。



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CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。