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見えないやさしさを見ようとして、

タイトルは私の大好きなBUMP OF CHICKENの天体観測を意識しています。
まったく語呂があってませんが。

私は家の鍵を3回落としたことがある。
しかしすべて無事見つけることができている。やさしさに救われたから。
ちょうどいいテーマがあったので書いてみようと思います。

1回目の紛失
それはスーパーで買い物を終え、自転車に乗ろうとした時だった。あれ、鍵がない?!自転車の鍵と家の鍵を入れているポーチがない?!と見当たらないことに気づいた。

食料品を爆買いした後だったので、その中に埋まってるかもしれないと思い、荷物を広げられそうなところに移動する。中身を全部ひっくり返して探してみる。どこにも見当たらない。何回もポッケも確認してみる。ない。

あ~~と絶望して天を仰ぐ。このあと夜勤もあるのにどうしよ~
と荷物を広げたままひたすら天を仰いでいた。

そこにある女性が通りかかる。悲しみに暮れている私の目の前をちらっと見て通り過ぎようとして、踵を返してこちらに向かってくる。そして私に声をかける。「あなたもしかかして小さなポーチ落とした?それならスーパーのレジの人に届けたわよ!」と。女神が通りかかったようである。

感謝を伝え、無事鍵を受け取ることができた。
不確実なことを見知らぬ他人に話しかけるなんて、そう簡単にできることではないと思うのです。私だったらめちゃくちゃ葛藤する。
やさしさに救われた。

2回目の紛失
夜勤明け、鍵がないことに気づく。鞄をひっくり返しても見つからず、幸いなことに社宅に住んでいたので職場で予備キーを受け取る。

近所の中華屋で絶望の気持ちで麻婆豆腐を食べ、出勤前に寄ったコンビニに確認しに行く。とても親切な店員さんで防犯カメラまで見てくれた。落としてないようだった。申し訳ない。

その後も心当たりを探してみるも見当たらず。
あきらめることにした。

その1ヵ月後。頭が痛くて下を向いて歩いて帰っていたら、つつじの植え込みの上にぽんっと鍵が入っているポーチを見つけた。中身を確認すると鍵が入っていた。

そこにたまたまた落としただけかもしれないけど、誰かが気づくようにそこに置いてくれたのだと思うことにした。
やさしさに救われた、のだと思う。

3回目の紛失
家について、鍵を開けようとした時、鍵がないことに気づく。職場に戻るも、鍵を渡せる上長が不在とのことで鍵を受け取れず。

いろんな人が一緒に探してくれたり、慰めの電話をくれたり、マックで一緒に時間をつぶしてくれたり、家に泊めたりしてくれた。

鍵は次の日出勤したとき、職場の近くの木の下に落ちているのを発見。

とんだ迷惑野郎でしかないけど、いろんなやさしさに救われて、夜を超えることができた。

とまあ、ただただ落とした私が悪いのですが、いろんなやさしさに救われて、鍵代を請求されることなく(たぶん)先日退去することができました。

他にもクレジットカード付スイカを2回落としているんだけど、こちらも2回とも悪用されずに戻ってきた。運をそういうところに使いすぎている説あるな。

見知らぬ誰かのやさしさに救われているから、思うわけです。
私もやさしくありたい、と。

先月、BBQの予定に向かっている最中のこと。シルバーカーを使用しつつ歩行不安定な高齢の女性が階段を上がろうとするところに遭遇。シルバーカーは見捨ててヨボヨボと階段を上り始めた。あまりにヨボヨボしているものだから、思わずエレベーターもエスカレーターもあることを伝えてみる。

その女性は沈黙の後「でもこっちのほうがいい気がするから・・・」とまたヨボヨボと階段を上り始める。えーーーと思いながら、シルバーカーを運び、ゴール地点にセッティングする。この後どうしようと見守っていたら、駅員さん二人が「大丈夫ですか?」となんかいろいろ持って駆けつけてくれた。誰かが駅員さん呼びに行ってくれたのかな。
引き継いで、私はBBQに向かうことにした。(そしてちゃっかり遅刻した)

私がしたことは大きなお世話だったかもしれないし、やさしさとかではなく自己満足だったかもしれません。
でもきっと、誰かが駅員さんを呼びに行ってくれたのは、やさしさであったのではないかなあ、と想像してみます。

この出来事があった駅は、大きな駅で、その女性の横をたくさんの人が通り過ぎました。みんな見て見ぬふりをするんだなあ、とその大勢を見て憂うよりも、その中の誰かが駅員さんを呼びにいってくれたのかなあ、ということに思いを馳せたい。
ゼロではない可能性を信じたい、と思う。
見えないやさしさを想像して、受け取りたい。
そうやって社会が少しやさしくみえて、そしてやさしくなったらいいなあと思うのです。
こんな風に思えるのは、きっとやさしさに救われたから。




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