【感想】『諦めの価値』と、「諦め・拘り」を見極める「諦めの極意」
こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!
マガジン『本を読んだら鳩も立つ』での本のご紹介です。
前回の記事はこちらです。↓↓↓
今回は、森博嗣さんの『諦めの価値』から、
「夢を叶えるためにも、諦めることに価値がある」
という逆説的なその主張を見ていきます。
1つの記事あたり、だいたい5分で読めますので、お気軽にスクロールしてみてください!
「諦めるな!」と怒鳴られて
さて、4年に1度のオリンピックのたび、
「諦めるな、頑張るんだ!」
という言葉が強調されます。
そんな、人を激励する世間の風潮に待ったをかけるのが、いつも逆説的な真理を説くことに定評のある森博嗣さんの『諦めの価値』です。
そのタイトルにぎょっとするかもしれませんが、その実、
「本当の意味で夢を叶えるためにも、諦めることにこそ価値がある」
と立ちどまって考えさせてくれる本なのです。
さてここからは、『諦めの価値』を、
①諦める以前に、あなたの夢にはそもそも行動が伴っているか
②「諦めない」ことを単に煽るのは無責任
③何を諦め、何を諦めないかの見極めが「諦めの極意」
という3つの観点から見ていきましょう。
①諦める以前に、あなたの夢にはそもそも行動が伴っているか
さて「諦めること」の強調にはどこか後ろ向きな印象が伴いますが、
しかし同書は「諦めなければ、夢は叶う」という言葉を、むしろ肯定しています。
ただし、「そこには必ず行動が伴うはずだ」と述べるのです。
つまり、本当に「望む」のなら、なんらかの行動が伴うはずである。
その夢に近づくため、なんらかの行為が必要だし、それをせずにはいられないのが普通だ。
自分の時間と労力を消費して、その目的に向かってなにがしかの行動を起こす。
しかもそれを継続する。
そうすれば、必ず夢は叶う。
少なくとも目的に近づくことができる。
行動すれば、自分は変化する。環境も変わる。自分以外の人の評価も変わってくるだろう。
そして、「諦める」という動詞は、このような夢に向かう行動を断念することなのだ。
ここから、「諦めなければ、夢は叶う」という法則が生まれる。
一方、このような行動の伴っていないレベルで、ぼんやりと「憧れている」だけのまま何もしていない人たちも多いと、同書は指摘します。
そして、「諦めきれない」と言っている人は、行動の伴っている人とそうでない人の二種類があるとしています。
「諦めきれない」と悩んでいる人は、二つに分けられる。
一つは、諦めることで失うものが大きい場合。
既になんらかの努力を重ねてきたため、諦めることで時間やエネルギィが無駄になる、という意味だ。
せっかくここまで頑張ってきたのに、まだ完成していない中途半端なものを、今捨て去ってしまうのは忍びない、といった抵抗感だろう。
もう一つは、諦めるものの実体が、自分でもよくわかっていない場合。
つまり、まだ何も始めていない、ただぼんやりと憧れているだけの対象だった、遠くから眺めているだけの存在だった。
諦めても、失うのはその憧れていた自分の時間だけである。
「諦める、諦めない」と語る以前に、
「そもそも行動ができているか」
という観点も重要になるというわけですね。
②「諦めない」ことを単に煽るのは無責任
さて、夢に向かって行動していれば、諦めなくてもよいのでしょうか。
「決して諦めずにがんばれ!」と応援する風潮を作ろうとするのが世間ですが、
「実際には、目的を達成するには数々のものを諦める必要がある」
と同書は説きます。
たとえば、スポーツ選手になりたいとか、アイドルになりたいとか、そんな夢は幼稚園児までなら誰だって抱くことができる。
しかし、小学生にもなったら、大勢の人が、自分には向かないだろう、と諦めるはずだ。
ただし、少し才能がある(あるいは向いていると思われる)人は、なかなか諦めきれない。
特に、指導する人間が「諦めるな!」と激励する。
勝負事なら、「絶対に勝てる」「負けることなんて考えるな」と励ますだろう。
身も蓋もないことを書けば、非常に無責任なことを言う人が大勢いる。
(中略)
成功するかどうかは、半分以上が、その人間の能力、つまり才能によっている。
自分の才能を見極めることが非常に大事であり、自分をよく知っていれば、そうそう大きな失敗はしないだろう。
確率の高い方法を選び、地道に努力を積みかさめることが、最も期待値が高い成功への道といえる。
そんなことは、本に書くようなことでもない常識だろう。
本人が向かうべき道は何か。
そのことを本人によく考えさせないまま、ただひたすら、「諦めるな!」と煽るのではなく、
「むしろよくよく諦めた上で、どんな道ならば、自分が本当に考えた『目的』を達成できるか」を考えさせること。
そんな冷静さが世間に求められているともいえそうです。
そうして「諦める」という選択肢を得た上で、
何を諦め、何に拘るのかを決めるべきだ、ということでしょう。
ものごとに執着しすぎるのは、みっともないと感じる人が多いはずだ。
ちょっとした衝突があったときに、さっと引くことができるのが紳士、淑女であるし、クールな人格だと認識されている。
これは、なんでもすぐに諦められる性格だといえるが、ようするに、自分をコントロールできる理性の持ち主だ。
逆に、ものごとに拘る人が褒め称えられることもある。拘ったから成功した、というストーリィが前提となる。
(中略)
どちらが良くて、どちらが間違っている、というわけでもない。
ときと場合による。
諦めるべきときには、さっと諦め、拘るべきときには、とことん拘る。
また、そのそれぞれの場合で「さっと」や「とことん」という副詞が表現する姿勢に、両者の真髄がある。
ただ、諦めろ、拘れ、という問題ではない。
③何を諦め、何を諦めないかの見極めが「諦めの極意」
というわけで、ここまで
「『諦める』という選択肢を持っていることが健全だ」
という内容を見てきました。
「諦める」ことは、べつに悪いことでもなんでもない。
単なる判断の結果である。
たしかに、諦めるためには、ちょっとした無念が必要な場合もあるけれど、それもたいしたことではない。
どんなときでも、なにかを諦めることになる。
「せっかくここまでやったのに」とか、
「これが自分の生き方だ」などと、
拘ることの方が、むしろ危険な状況である。
そうではなく、いつも柔軟に考え、現在の状況をよく把握したうえで、価値判断をすること。
そのときに、「諦め」が結果的に現れるというだけである。
自分自身の「夢」とは何なのか。
その「夢」に向かって、何を諦め、何を実行するのか。
いや、その「夢」とは本当にあなたの「夢」なのか。
もっと抽象的に考えた先に、あなたの本当の「夢」があるとすれば、「やらなければらない」と思い込んでいたことは実は諦めるべきではないか。
「諦める」という選択肢が生まれるだけで、こうして一歩引いた目線で、自分の人生のことを考えられるようになるのではないでしょうか。
そうして「諦める」「拘る」のバランスを見極めるところに「諦めの極意」がある、と同書は説きます。
夢を実現するためには、ある程度の「諦め」が必要だが、どうしても譲れないものも、たしかにある。
その見極めができることが、非常に重要であり、これが「諦めの極意」になる。
諦める能力とは、つまりは、次のステップへすぐに移れる身軽さを意味する。
諦めきれない時間は、判断を遅らせ、新しいものへの備えが間に合わなくなる。
突き詰めると、頭の固さが、諦めきれない主原因といえるだろう。
だから、日ごろから自分がどんな状況にあるのか、高い視点で観察して、客観的な判断ができるように心の準備をしておく。
そのために必要なのは、悲観的な予測と、柔軟な思考だろう。
それが、「諦めの極意」である。
こうして「諦めの極意」を得られれば、自然と「諦めの価値」も得られるでしょう。
本書内に挙げられているそんな「価値」の一例として、
「批判されても、自分の考えに固執しなければ受け止められる」
「抽象的で客観的な思考を育み、ものごとを冷静に、穏やかに、高い観点から見られる」
などが挙げられるでしょう。
他にもさまざまな「価値」が同書では言及されていますが、気になる方はぜひ、一読されてみてはいかがでしょうか。
さて、ここまでの内容を簡単に図にまとめると次の通りです。
『諦めの価値』のビジネス上の価値
森博嗣さんの新書は抽象度が高く、人生論としても取れると同時に、ビジネス上でも役立つような示唆が得られます。
たとえば既に投じた費用のうち、回収できないものをさす「サンクコスト」は、
「もう●●億円注ぎ込んだプロジェクトなんだから、今さら止めるわけには……」
と意思決定の邪魔をしてきますが、
「どうせ回収できないんだから、諦めて次に進もう」
という姿勢が企業内に備わっていれば、サンクコストの罠にはまることはないでしょう。
また、競争力のある事業を「選択」し、経営資源をこの選択した事業に「集中」するという「選択と集中」ですが、
実際には、「選択されなかった事業をさっと諦める」ことの方が肝要です。
「選択と集中」を提唱したGEのジャック・ウェルチの偉大さは、
「業界1位か2位となれない事業は捨てる」
と宣言した、その諦めの良さにこそあるのではないでしょうか。
コロナ禍とDXにより、更なる構造改革がさけばれる日本企業ですが、
その肝は、まさに「諦めの価値」に見出せるのではないか、と思う鳩です。
参考資料
・森博嗣(2021)『諦めの価値』 (朝日新書)
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