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面白エピソードで学ぶ三国志~魏編~

【はじめに】
 今回は、演義において敵(悪)として扱われる魏(曹操軍)についての面白エピソードを紹介します。

【優秀さ故の失態:楊脩】
 はじめに紹介する人物は楊脩(楊修とされることもある)です。楊脩は鶏肋の由来となった話に関係のある人物です。この鶏肋の話が原因となり処刑されてしまいますが、史実には詳細はのっていないため明確に異なる部分以外には言及するが、それ以外の部分では史実と演義の違いについては言及しません。
 楊脩は非常に優秀な文官で、曹操に気に入られていました。そのため漢中でおきた蜀との戦争において従軍していました。漢中での戦いは長期化し、持久戦になりました。そんなさなか曹操が鶏肋とつぶやいたのをきいた楊脩は撤退の準備をはじめました。曹操の言葉を、鶏肋(鳥のあばらの骨)は食べるには肉が少ないが捨てるにはもったいないと解釈し、そこから漢中(鶏肋)は惜しいが退却するべきだろうと読み取った故の行動でした。これに対し、演義では曹操は撤退するつもりはなく、勝手に退却の準備をして軍を乱したとして楊脩を処刑している。史実では曹操は退却したものの、その数か月後に楊脩は処刑されています。この処刑理由ははっきりとしていないが、曹操の後継者争いで優秀な楊脩が曹植に肩入れしていたことを曹操がよく思っていなかった説や、もともと危険視していたが鶏肋の件で自身の考えを読まれたことで曹操が楊脩の処刑に踏み切った説などがあげられている。どのような理由で処刑されたにしろ、優秀だったことが彼の死の要因だといえます。

【史実と演義でまるで別人:夏侯惇】
 次に紹介するのは曹操の従兄弟の夏侯惇です。夏侯惇は史実と演義では別人のようなえがかれ方をしています。
 主に知られている夏侯惇の人物像は演義のもので、軽率な面があるものの優秀な猛将としてえがかれています。関羽との一騎打ちで決着がつかないほどの打ち合いをしたり、敵将である曹性に左目を矢で射貫かれた際にその矢を抜き、そのまま曹性を打ち取ったりするなどの戦場での活躍がえがかれています。その一方で、孔明の計略にかかり大敗するなどの軽率な面もえがかれています。
 史実では、城を守るために呂布と交戦するも捕らえられたり、劉備を攻撃するも伏兵にやられたりと軍事においてよいところがありません。一方で、韓浩や典韋などの優秀な人材の推挙や曹操の遠征中の国政をになうなど文官として活躍しています。また曹操と仲の悪い人物との仲介をしたり、私財を必要以上に増やさずに周囲に分け与えたり、曹操が夏侯惇を不臣の礼(魏の武将としてではなく、漢王朝に使えるものとして曹操と同等に扱う)として扱おうとしたりするなど人格者としての逸話が数多く残っています。演義で夏侯惇が武官として登場しているのは、魏の事実上のナンバーツーが文官だと扱いづらいことが影響したのかもしれません。

【史実が創作並み:張遼】
 最後に紹介するのは張遼です。張遼は史実において創作物ではないかと疑うほどの戦果を挙げています。その中でも特に戦果が凄まじい史実の215年の合肥の戦いについて扱います。
 合肥の戦いにおける戦力比は絶望的で、張遼率いる魏の防衛軍は兵7000人に対し、孫権率いる呉の攻撃軍は兵10万人でした。しかし、張遼は兵800人を率いて明け方に敵軍に急襲をかけて孫権の目前にまで迫ります。それでも兵の数の差から包囲されてしまいます。そこで張遼は包囲の中央を急襲することで包囲を脱出するも、数十人の兵しか脱出できませんでした。そこで張遼は、再び包囲に突撃して残された兵士を救出しました。敵の出鼻をくじいた張遼は、そのあとは城での防衛に専念し敵軍を撃退します。さらに撤退する敵軍を追撃し、多くの兵と武将を恐怖の底に落としました。この影響はすさまじく、泣く子に対して「遼来遼来」(張遼が来るぞ)といって泣き止ませたという逸話ができるほどで、これは「泣く子も黙る」の語源になっています。

参考画像
写真AC
https://www.photo-ac.com/
イラストAC
https://www.ac-illust.com/