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US HIPHOPの歴史#05

 アメリカでは、地域ごとのギャングによる対立による影響でラッパー同士が喧嘩をするビーフが地域やそこのラッパーとの間で起こります。1990年代後期には、東部と西部の対立が激化し、伝説のラッパーたちが命を落としてしまうという事件にまで発展してしまいます。現在でも、xxxtentacionやyoung dolph、king vonなど多くのラッパーが毎年のようにギャングの抗争の中で命を落としています。今回は、東西の対立とその中で生まれたスーパースターについて掘り下げていこうと思います。
 
 1994年10月、ニューヨークのBAD BOY RECORDSからThe Notorious B.I.G.がデビューし、「Ready to Die」というアルバムをリリースしました。The Notorious B.I.G.はガタイがよく、イカツイ見た目とは反してバラードのようなラップの仕方や声、さらにCOOGIのセーターなどを着たファッションアイコン的な存在として世間ではBiggie(ビギー)と呼ばれ親しまれていました。加えて、マイケルジャクソンとコラボしたことで全米で名の知れた人物になりました。

引用元:ttps://wmg.jp

 しかし、デビューアルバムを発表する前不安があったビギーはロサンゼルのラッパーである2Pacに相談をしていました。この時東西の争いはそんなに激しいものではなかったためビギーと2pacは仲のいい関係が成立していましたが、シカゴのラッパーCommonが「i used to love H.E.R.」という曲でロサンゼルスのギャングスタラップに対してタイトルのherに「H.E.R. = Hearing Every Rhyme」という意味を持たせ、リリックの質の低さについて言及する曲を発表したことで、東西が少しぴりつきはじめました。そして、2Pacがビギーに会うためにタイムズスクエアにあるスタジオに向かったところ、そこで数人の男たちに囲まれ銃で5発撃たれた後に、金品を盗まれる事件が起こります。2pacは一命はとりとめたものの事件前に裁判を抱えていたため手術後すぐに裁判を受け有罪になったためそのまま刑務所に入ってしまいます。この時、2pacはビギーにはめられたと思っていましたが、ビギーはそのことを知らず2pacの銃撃事件への意図はなく「WHO SHOT YA?」という曲をリリースしましたが、2pacはこれを挑発と受け取りビギーへの怒りが増していきました。


引用元:https://thesource.com/

 その後、VIBEという雑誌が2pacがビギーにはめられたという記事を書いたことと1995年に開かれたSource Awardsでの各レコードのラッパー、代表のスピーチによって東西の対立が激化しました。ロサンゼルスのSnoop doggとThe Dogg Poundのニューヨークへのディス曲「New York, New York」や、ニューヨークのMobb Deepのロサンゼルスへのディス曲「L.A., L.A.」など東西で相手を卑下するような曲が増えました。東西の対立が激化した後、Dr.Dreの所属しているDeathRowRecordsが2pacの保釈金を肩代わりして釈放させDeathRowに2pacを加えました。出所後、「All Eyes On Me」というアルバムを発表した2pacは刑務所でため込んでいたビギーへの不満をメディアを通して発言し、ビギーをはじめとするニューヨークのラッパーたちをディスっていきました。しかし、ニューヨークの特定のラッパーをディスっているだけで地域全体をディスっていなかったので、「One Nation」という未発表のアルバムではニューヨークからもラッパーやプロデューサーを読んで制作をしていました。

引用元:https://www.xxlmag.com/

 VIBE誌がビギーを表紙に載せ、東西対立という見出しで雑誌を刊行したところ事情の知らない世間が勝手に盛り上がり、東西にまた亀裂が入りました。その影響により2pacは「One Nation」を制作している中で、親しかったマイクタイソンの試合後に銃で撃たれてなくなってしまいました。一方、その報復かのようにビギーもロサンゼルスに新アルバムの宣伝に来た際に銃で撃たれてなくなってしまいました。ロサンゼルスとニューヨークの二人のスターが亡くなってしまったことと、DeathRowからDr.DreとSnoopDoggが抜けたことでギャングスタラップの熱は少しずつ覚めてきました。
 
 その後、BAD BOY RECORDSの代表であったPuff Daddyはビギーを追悼した「I’ll Be Missing You」曲を発表し、強さや男らしさを歌ったHIPHOPだけでなく内面の弱さをさらけ出す事への抵抗が無くなっていきました。ギャングスタラップが衰退した中でPuff Daddyは次なる経営戦略として金や車など成功したラッパーにフレックスさせ、派手さを前面に出させました。
 
 Puff Daddyの経営戦略はHIPHOPを大衆的にしてしまったと考える人たちが現れ、ストリートの古き良さを取り戻すため地方でのサイファーやバトルが熱を持ち始めます。次回の記事では、今回触れなかった東西対立時代の南部のHIPHOPの発展について触れていこうと思います。