第3話:これまでの話

あいさつ

ども!mazzyです!
前回の更新からかなりの時間が経過してしまいました…
楽しみにしていた方がいらっしゃるかどうかはわかりませんが、すみません。お待たせいたしました!
今回のお話は、2月近くから準備はしていましたが、色々あって更新できず温めていたものになります。なるべく、当時の私の心境と言葉をそのままにして論を進めていこうと思います。

卒論も提出し終えて、春休み…かと思いきや、大学院のゼミの方が休む間もなく始まってしまい、完全な春休みではありませんが、少しばかりの休みを満喫しています(本当に満喫しているかは自分でも分かっていない)。その卒論を書き終えたタイミングで病み期が到来しました。そこまでの背景、その中で感じた事や考えた事を述べつつ、本題を述べていきたいと思います。私なりに「幸せ」、「生きること」等についてまとめてみました。皆さまの考えや感想も聞いていき、深めていけたらなぁ…なんてことも考えています。なお、これはあくまで個人の思想、思考です。

病み期になった背景

 2024/2/13、17時が卒論の提出日であった。結論、私は当日の14時にそれを提出した。そこまで、教授から指摘をされ、修正をすることの繰り返しだった。
 なぜ、こうなってしまったか。それは私の怠惰が原因である。12月頭から少しずつは書いていたが、カメのようなスピードで書いていた。年末は、イベントが目白押しで搬入出のバイトをしていたり、大阪へ遠征をしていたり、自分にとって「楽しい」と感じる予定を優先してしまっていたため、そのしわ寄せでギリギリまで卒論に苦しんでいたのであった。大学院の進学も既に決まっている中で、このような感じになってしまい、大学院進学の自信が無くなってしまったこと、大学院での修士論文の執筆にあたって、再度同じようなことをやらないといけないのかと思うと憂鬱になってしまったことで、大学院進学を断念し、就職することも考えた。しかし、その選択は決して軽いものではない。様々な事を考えながら生きていた結果、病み期がきてしまった。結論、私は大学院に進学し、闘っていくことを決意した。

幸せ

 まず、幸せ、幸福とは。これは「心が満ち足りていること」である。人間は古来、幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は「幸福論」と呼ばれている。幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におく説を幸福主義という。

幸福 - Wikipedia

 引用元のWikipediaにもある通り、ソクラテス、アリストテレスをはじめ、人間は古来から、多くの人が幸せや幸福について考えてきた。私もその中の1人である。閑話休題、結論、私の考える幸せとは、「楽しむこと」そんなような気がする。したがって、本投稿では「幸せ」を「楽しむこと」と定義し、論を進めていくこととする。ありふれた解答、なんのひねりもない解答ではあるが、最終的に私はこの回答に行きついた。
 幸せについて考える際に、池袋や新宿の都会を利用している、疲弊しきっている社会人、死んだような顔をしながら歩いている社会人、友達と笑いあっている社会人、様々な社会人を目にしてきた。その人たちと自分のこれまでの生活を見て、幸せとは何かを考えた。
 それを考えるにあたって、何を目的に働いているのかを考えた。働く目的はたくさん存在すると思う。生きるためはもちろんであるが、家族を養うため、自分の好きな事にお金を使うためが主たるところだろう。結局、それらが直結するところは「楽しむこと」なのではないだろうかと考えた。趣味にお金を使って楽しむこと、好きな人・愛する人や守るべき人の笑顔を見れることが、「楽しむこと」に繋がると考えたためである。かく言う、私もライブに行って盛り上がったり、好きなゲームをしたり、友達と話しているときは「楽しい」と感じるし、「幸せ」だと感じる場面が多々存在する。池袋や新宿の都会を疲弊しきっている社会人、死んだような顔をしながら歩いている社会人、友達と笑いあってる社会人の諸先輩方も、その「幸せ」のために生きているのだと思った。

生きること

 人間は何のために生きるか、それについても古来から多くの人間が考え、様々な論を提唱してきた。本投稿では「何のために生きるか」を、「幸福追求により、より良い人生を過ごすため」と定義し、論を進めることとする。これを踏まえると、「幸せ」と「生きること」は密接に関係していることが分かる。自分が人生を終了する間際、自分の人生がどうであったかを振り返ると思うのだが、その際に私は「我が生涯に一片の悔いなし」、「思い返せば、幸せな人生だった」と思いたいものだ。多くの人はそのように思うのではないのだろうか。
 この様に思えるためには、どうすれば良いか。それは人生の多くの時間を、1秒でも長く「幸せである状態」にすることだと私は考えた。先程の定義に従っても、大方、見当違いとなることは無いだろう。これもまた、先ほど同様にありふれた解答、なんのひねりもない解答である。そして、「幸せである状態」は十人十色である。人によっては、結婚して子どもを育て上げることだったり、自分のやりたいことをやりたい時にやりたいだけやることだったり、と自明ではあるが、決まりきった解答がある訳ではない。自分が思う「幸せ」に向かって突き進めば良い。それが、人の生きる道、すなわち「人生」で、あなたの道なのだから。

まとめ

 本投稿では、幸せとは楽しむこと、生きる目的は幸福追求により、より良い人生を送るため、と定義して論を進めてきた。これはあくまで私の定義であり、読者のあなたにはあなたなりの定義があって然るべきだ。そして、その定義に従って生きるべきだ。私のこの定義をあなたにまで強要させるつもりは全くない。ただ、私が病み期の中で思考した事を書き記し、今後の決意表明のために本投稿、noteという場所を利用しただけである。最後に、ここで読者のあなたには問いかけをしたい。

 ただこなすだけの毎日なっていませんか、と。

 忙しい毎日を過ごす中で「なんのために生きているか」が曖昧になり、目的を見失い、ただひたすらに毎日をこなして過ごしている日常、個人的には非常に勿体ないと感じる(それが悪いことだとは思わないが)。現状、私はやりたい事とやるべき事が山積み状態でいくら時間があっても足りない。それは、本投稿の様に、幸せと生きる目的、そして、これからの自分がどうあるべきか、どうありたいかについて考え、私なりの結論が出たからだと思う。今はその目標に向かって、ただひたむきに頑張っていこうと思う。目標に向かって頑張る他の人の姿を見て、私も頑張ろう、頑張ってみようと思えることがある。私はあなたの頑張る姿に励まされている。そして、私の頑張る姿が他の誰かの励みになっていて欲しいとも思う。頑張ること、目標に向かって突き進むこと、素晴らしく美しい姿の1つだと思う。あなたの中にもあなた自身を奮い立たせられる、頑張ることのできる目標があらんことを。

最後に

ここまで読んで頂きありがとうございます!
この話を書くに当たり感じたこと。
ムズい!難しいよ!
読者の中には、「何を浅いことを…」と思われる方がいらっしゃるかもしれない。なので、改めて、上の文章はあくまで私の感情・思考である。こんな考え方もあるのか、と参考程度にしてほしい。
それでは、次はこれからの話で会いましょう…


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