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死んだ女の子と原爆を指差した男の子

以下のブログは、2009年8月に、長崎市内に住む父母から原爆についての話を聞き取ったものです。それをNoteに転載しました。なお、父母は被爆しましたが、90歳を超え、健在です。

https://blogs.itmedia.co.jp/closebox/2009/08/post-2165.html


母親から「死んだ女の子」の話を聞いた

8月6日 8時15分は広島に原爆が落とされた時刻だ。そのあたりのTwitterタイムラインは「黙祷」の文字列であふれた。その前後に元ちとせが歌う「死んだ女の子」という楽曲のYouTubeへのリンクが貼られていたので、それを見た。以下は、その後、わたしがTwitter(X)に投げたポスト:

「死んだ女の子」を聞いて、気になったことがあったので、母親に電話してきいてみた。母親の家族が疎開したのと入れ替わるように移ってきた親戚の話。原爆中心地から600mの距離。

母親一家(祖父は三菱製鋼所勤務だったが、当時は上海に出征中)が住んでいた住所は長崎県長崎市岩川町18。

疎開したのは4月中旬。入れ替わってその家に入ってきたのは祖父の妹と、その息子(当時12歳)。母親の従兄弟になる。

その家族は黒こげになっていたそうだ。「もしもあの家に残っていたら死んでいただろう。父親も三菱製鋼所に行っていたら死んでいた」。その家族で生き残ったのは、「はっこちゃん」という従姉妹。いまでも仲良くしているがそんな過去があったとは知らなかった

「はっこちゃん」は防空壕に入っていた助かったらしい。浦上駅の周辺には、ほかにも親戚が住んでいた。祖父の姉妹の家族がやはり近くに住んでいた。6人家族で娘が3人。全員亡くなった。傷はぜんぜんなかったそうだが、「空気を吸った」のが原因だと母親は言っていた。放射線にやられたのだ。

母親は終戦後、その家の近くにいって介護などの手伝いをし、入市被爆はしたが、直接被爆した人とだけは結婚しないと思っていたそうだ。父親(1.9kmで被爆)を見て、「傷がない」ことを確認してから結婚を決めたらしい。ここで決心しなければ、ぼくは生まれていないことになる。

これが、ぼくがさっき聞いたリアルな「死んだ女の子」の話。母親の代わりに死んだ多喜男さん、ナオさん、トモコさん、レイコさん、ヤスコさん。付近に住んでいた祖父の兄弟、甥、姪、そして原爆で亡くなったすべての方々。8/9 11:02には彼女たちにも祈りを捧げよう。

原爆を指差した男に話を聞いた

 前回が母親の話だったが、きょうは父親にインタビューした。概略は去年書いたもののままだが、いくつか知りたいところがあったので、そこを含めて再度話してもらった。ポイントはいくつかあった。

・被爆した場所から爆心地に近い実家に向かう途中のようすはどうだったか
・腐臭はいつ頃まで続いていたのか
・学校には行ったのか
・黒い雨について
・死体を埋めたり焼いたり
・祖母のケロイド

このあたりの話を挟みながら、再度語りなおしてもらった。8月9日11時2分の1時間くらい前から40分くらいかけて電話で聞いたものだ。一部はTwitterで流している。


「原爆を指差して生き残ったのはわずかだろう」。父親は爆心地から1.9kmのところで、11歳のとき被爆した。家野町の実家から親戚宅に疎開中、ここで被爆。家の外で稲佐山に落下傘を目撃して指さしていたら直後のこと。

ラジオで島原方向から長崎の方向に敵機が来ているという話があって空を見ると、稲佐山の近くに落下傘が見えた。2つあるように思った。「アメリカ兵が降りてるぞ」と思って指差した。


B-29から投下された原爆のパラシュートを指差した


直後に牛小屋の中まで吹き飛ばされる。

昼間だけど、焼夷弾だと思った。ピカーっとした瞬間に小屋の中にいた。そこで気絶もしくはわけがわからなくなり、弟の泣き声で我に返る。ワラの下敷きになってる。誰か助けに来てくれるかと思ったが誰も来ない。外に出てみたら、瓦が大量に積もっており、ひどい状態。

けがした人が坂道を上ってきた(疎開先は長い坂のかなり上のほう)。手や脚を怪我したり焼けただれたりした人が多数。それから防空壕に入った。ラジオは壊れてしまった。小半時したら、三菱兵器のほうから人々がやってきて「入れてくれ」と言われるが、防空壕には入れられない。暑いし、死人は出てるし。

祖母は本家(爆心地から1.6km)で乳を子供に飲ませていて被爆。右半身は火傷し、ケロイドが残る。雨が降る前になるとヒリヒリしてわかる。父親は、ウジがわくからそれをとらされていた。治療方法がなかった。その祖母も7月に100歳となった(104歳まで生きた)。

父親は1カ月ちょっとしてから黄疸になった。目も黄色になった。しじみがいいという話を聞いて、しじみをとりにいって、食べた。幸い父親は原爆症の症状はないが、弟はいま胃がん。「政府のいうことも信用ならん」と、被爆が原因かどうかについての認定基準については不信感を持っているようだ。

父親がいた山里小学校は生き残りわずか30名(本当はもっと多いはずだが、学校が壊滅したので西浦上小学校に転校した数)。そのとき防空壕で難を逃れた先生と、結婚式で再会。父親が仲人をした人の親戚だったという偶然。先生に教わった軍歌をうたってみせたら「洗脳教育はおそろしいです」と驚かれた。父親はあれだけ嫌いな軍歌が、散歩してても自然に出てくるのだという。

おばさんが三菱造船所で被爆。疎開をしなければならなかったが、おばさんが死にかけていたため、動くに動けず。16日になって死んでから、外海町まで夜中、山道を歩いて逃げた。8里くらい。終戦になってから、そこに疎開。アメリカの輸送船団が来てた。見られたら撃ち殺されると隠れながら。荷物は牛に載せ、泣く弟をなだめつつこちも泣きながら。

近所に住んでいる、父親と同年代の男性は結婚して子供ができたが、その後、原爆症で死んだ。その人の子供はわたしと同じくらいの年齢。10歳前後での被爆で成人しても、原爆症が発症というのはあるのだ。父親の親戚では、被爆者救済に多大な功績を残した永井隆博士の如己堂が現在ある近くに住んでいたおばさんの家族が全滅している。

身元のわからない死体は何カ月も放置されていた。余裕がないのだ。ずっと腐臭がする。魚の腐ったものとはぜんぜん違う臭い。臭いがなくなったのは数カ月後。歩いていて、草履がずるっとすべると死体の顔の部分だったということもあった。

死体は焼けただれてすっぱだかで丸焦げで死んでいる。死んだときはやせていたかもしれないが、ガスでふくらんで太っているように見える。原爆症は、髪の毛が抜けたり、下痢、紫の斑点になったらしまいと言われた。自分には幸いそれはなかった。

 最後に、「お前もちゃんと検査を受けるように。俺もわからんけど」と言われた。被爆二世の場合にはがん検診を無料で受けることもできる(県外でもだ)。わたしの場合は人間ドックを受けてるから不要だとは思うが。原爆が体に残したトゲは去ったわけではないのだ。


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