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オブジェクト/シアター【サーカスを語る技術 100ぶんの1歩】

技術がある、というのはどういうことか。
誰かのパフォーマンスをみて、「やっぱうまいね、技術があるね」と思ったり、「発想はいいんだけど技術がないから、アイデア倒れになってるね」と思ったりする。

そのときの「技術」とはどういうことか。
それを一旦仮に、「1のうしろに100があること」としてみる。何かしらが100ある中から、1を取り出すことが出来ること。それを「技術」としてみる。

とすれば、「サーカスを語る技術」の手前には、「サーカスを語ること」が100ある。それを、何かしらの記事を書くことでひとまず始めてみようというのが、この記事の趣旨だ。


講座「人形劇あるいはオブジェクトシアター:物と人の新しい関係」の記録

ある講座に参加した。講座のタイトルは「人形劇あるいはオブジェクトシアター:物と人の新しい関係」
座・高円寺で開催されている「思考の種まき講座26」として、山口遥子さんが講師になって2時間ばかり話すという講座だ。

とてつもなく面白かった。
目下「現代サーカス」という分野に身を置いている自分がなぜ、そんなにも面白く感じたのか。その理由は3つある。

  1. オブジェクト(物)と人の「新しい」関係のあり方、という問いの立て方が、現代サーカスにも通じる物だから。

  2. 1980年代以降の(ヨーロッパの)人形劇実践を俯瞰しつつその問いを扱うというアプローチが、極めてロジカルで分かりやすかったから。

  3. 現在の人形劇シーンへの講師の山口遥子さんのスタンスが(時々心配になる程)明確で忖度がなく、刺激的だったから。

①物と人の新しい関係

「マニピュレーション」という言葉について触れるところからこの講座は始まった。
人形劇とは一般に、主体subjectである「人」が、客体objectである「人形」を「操作manipulateする」舞台芸術形式だと理解されている。
しかし1980年ごろからの人形劇実践では、「人」と「物」が操作-被操作/支配-被支配ではなく、対等な相互的関係を結んでいる、いわば脱人間中心主義的な世界観に基づいた作品が目立つようになってきたという。

講師の山口遥子さんは、ジェーン・ベネットが提起するニューマテリアリズムの議論にも触れながらその潮流を説明するのだが、その辺の小難しい話は一旦置いておく。

サーカスと関わる話をしよう。
「人」と「物」の関係性というのは、ここ数日の僕自身にとって、極めてアクチュアルな話題だった。というのも、現在ベルギーから来日しているサーカスアーティスト・Mille Lundtが、瀬戸内在住の日本人アーティストとワークを行う中で大きなトピックとなったのが、「物と一緒に舞台上に存在すること」だったからだ。
特にダンスからサーカスへと足を踏み入れたアーティストが感じる、2つのジャンルの大きな違いは「物が身体と一緒にそこにあること」だという。物との関係性のあり方をどう取り扱うかは、サーカスという舞台芸術形式を考える上で重要な要素の一つなのだ(ハンドスタンドやハンドトゥハンドなどのアクロバットにおいては必ずしもその限りではないが)。

その点でMilleは、「パフォーマーは物に影響を与えるだけでなく、物からも影響を受けている」というような言い方で、サーカスにおける物と人の相互的な関係性のあり方を説明していた。
また僕自身、サーカスは意識的なレベルを超えて、物理的・自然現象的なレベルで「物と人が対等になる」あるいは「人もモノに過ぎない」というような世界観を具現化することのできる、数少ない表現手段だと考えている。
(そしてそのことはすでに、ハンス=ティース・レーマンが『ポストドラマ演劇』(1999)で指摘している。)

本講座における「人」と「物」の関係性という問いについて、サーカスとの類似性を見てとったのは、別に僕がそういう見方をしたからではない。講師の山口遥子さんは、近年の人形劇が発展する中で交わってきた表現形式の中にサーカスを挙げており、彼女が企画する「下北沢国際人形劇祭」に招聘されている演目のひとつ『STICKMAN(棒人間)』のDarragh McLoughlinは、Circus Nextの2013年の受賞者に選ばれている(このことは講座で居合わせたやまださんに教えてもらいました!)。

②1980年代以降の(ヨーロッパの)人形劇実践を俯瞰する

講座の中で、山口遥子さんは現代人形劇作品の傾向として以下の3つを挙げた。

  • モノと人間の共存(Co-presence)

  • モノ自身の身振り(acting)への注目

  • ニューマテリアリズムの動向と一致

もうこの部分のスライドだけでも参加した価値があると思うくらいに洗練されていた。まず、実践の中で試みられている事柄が、ひとつ上の抽象度でもって端的に指摘されていることが素晴らしいし、それらの事柄が「傾向」という(奥ゆかしい)言葉で表現されているのも素晴らしい。

もちろんこのセンテンスだけではハラ落ちしないので、このスライドに続けて、具体的な人形劇作品の短い映像が、解説付きで紹介されていく。
その作品における表現が、人形劇史を踏まえた上で「どのようなトライなのか(=何を克服しようとしているのか)」ということが解説されるため、いわば「批評的に見る」ためのゲームのルールが提示されているような感覚だ。僕のような前提知識を持たない人間でも、作品を美学的に判断する軸を持てたような、そんな気持ちになってしまった。

とはいえ解説が、いかにも批評家然としたドライな鑑賞態度だけではなかったことも指摘しておきたい。時折、山口遥子さんの「人形劇人」としてのフェティシズムのような、「これが本当に素敵」みたいな瞬間が時々溢れてくる瞬間があった。そこには何か、愛とか業のようなものを感じて、とても良かった。そして実際、そうやって紹介される作品の「ある瞬間」は、とても美しかった。(Ariel Doronの『Plastic Heroes: 』の映像の中で、Arielがバービー人形を撫でる手つきの柔らかさをみて、僕は少し泣いてしまった。※僕はマイマーなので、手の質感にはとても敏感)

注:↓の動画の中にそのシーンは含まれません

サーカスとの関係で言えば、このような批評的な目線が、もっと現代サーカスの文脈でも育っていく必要があると感じた。

少なくとも1970年代・1980年代以降の、演劇やダンス、美術などの隣接領域との交流も含め、現代サーカスはどのような「傾向」を持って発展してきたのか?また発展しつつあるのか?それらは過去の実践に対する、どのような「異議申し立て」なのか?ということが、サーカスコミュニティの外部に対しても共有できる形で言語化されていくべきだ。

それは一つには、公的な助成など「お金の出どころ」に説明する際に有効な手段だし、演劇やダンス、美術などの隣接領域から公演機会やお金、アーティストなどの資源を獲得する際にも必要になってくる。

そして何よりも、楽しい。
(ただこれはおそらく、僕のバックグラウンドが演劇だからかもしれない。演劇人は大抵、理屈っぽいことをあーだこーだ喋るのが結構好きだ。)

③現在の人形劇シーンへの明確で忖度がないスタンス

これはもう凄かった。
「日本の」現在の人形劇シーンに対する批評として、講師の山口遥子さんは結構ドライに状況を評価していた。

しかし、先に述べた現代人形劇作品の「傾向」と照らし合わせることでその評価の根拠は示されていたし、何が発展の足枷になっていると考えているのか、自身の意見を明確に表明しつつ、下北沢国際人形劇祭の企画統括という(途方もない労力を要するであろう)行動を実際に起こしているため、文句のつけようがなかった(「好みの問題だよね」などの言葉で片付けることは到底できないという意味で)。


自分の意見・スタンスを表明するということが、どうすれば可能になるだろうか?

僕自身がサーカスにおいてそれを躊躇うのは、サーカスというジャンルにおいて自分が無知であることを知っている(あるいは知りつつある)からだ。

だから僕は、サーカスを語ることを、それを紡ぐのに僕よりもっとふさわしい人の顔を思い浮かべては、しばしばそれを「語らない」言い訳にしてきた。しかし実際問題、「もうこれで十分サーカスを知った、さあ語りはじめるぞ」と踏ん切りがつくような瞬間は、おそらく訪れない。

じゃあ、ひとまず語りはじめるしかないのではないか。

講座が終わった後で、「なんであんなふうに語れるんでしょうね」と前述のやまださんと話した時に、やまださんは「1話すことの後ろに100あるからですよ」と言っていた。

「そうか、100あればいいのか」と(単純にも)考えたことが、この記事の冒頭で書いた文章につながっている。

この記事は、100歩のうちの1歩目になることを想像して、ここまでの文章を長々と書いてきた。この後も続けて書いていけたらと思う。


豊島勇士


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