銀の糸#5:再

『飛び降り』の練習の日だ、と気付いたのは、イトが家に帰ってこなくなった三日後だった。いつものごとく禿頭を見下ろしながら小言を聞き流している時、ふと壁際のカレンダーに目が止まった。十月の、第三金曜日。近くにはない磯の香りがふわりと鼻先を抜ける。それと同時に、脳の中で波が弾ける。色素の薄い目。ごつごつとした岩を器用に降りていく、細い足。もたもたしてんなや、と差し伸べられる、作り物のような手。

「……金白さん」

 ふいに呼ばれて、差し伸べられた手が朝靄のように消えた。

「……はい」

「ぼーっとして仕事出来へんのやったら、帰ったらどうや」

 机の上を、中指の関節でこんこんと叩かれる。書類に『また』不備がある、と呼び出されたが、その書類は私が作ったものではなかった。そう正直に伝えると、高嶋が言ってたぞ、と返された。あのちゃらんぽらんでヘラヘラした男に対する絶対の信頼はどこから来るのだろう。なぜ私は信頼がないのだろう。受け答えするのも馬鹿らしくなって、ミスだらけの書類は私のものになった。

 パソコンから出る光が目を刺す、午後四時。夕陽が窓から消えていくその時間、私は疲れた目頭を押さえて椅子に体を預けた。

『弱虫やなあ』

 どこからか、声が聞こえる。

『いっつも逃げてばっかりやないか』

 不思議な目をした宇宙人が笑う。そんなんお互い様やんけ、と私は言い返す。磯の匂いが体に張り付く。いつになったら、タオルを忘れないようになるのだろう。ゴツゴツした岩にぶつかって、波が割れる。跡形もなく、割れて砕け散る。高くなっていく足場。すくむ足首と、飛ぶことを強いる心臓。地を蹴って、水に足から突っ込む。ぼこぼこと耳のあたりを浮上する、自分が吐いた二酸化炭素。

『逃げてばっかりっていざ自分が言われたら、めちゃくちゃ腹立つわ』

 ざばん。隣に降ってくる、裸足の男。ズボンのポケットから浮き出る煙草の箱。手を伸ばしたら潰れてしまう、彼の吐いた二酸化炭素。隣で飛び込んだ男の閉じた目が、長い睫毛が、沈む。自分より深く、沈む。

「……イト」

 ぞわりと、背中から頭のてっぺんまで、鳥肌が立った。悟ってはいけない何かが、脳の大通りをすり抜けていく。ちかちかと、自分の上の蛍光灯が、電球切れを知らせる。空気清浄機の微かな音と、誰かの叩くキーボードの音でかき消される、確かに呼んだはずの名前。

「うわ、今度はそこも電球切れかいな」

 上司の、めんどくさそうで呑気な声。前のデスクの小笠原が、ちらりと恨めしそうに天井を睨む。

 ばたん、と大きな音が鳴った。めんどくさそうな上司も、苛立ったように見上げていた小笠原の目も、うつらうつらしていた高嶋も、驚いたように顔を上げた。大きな音の正体が私自身であることに気付くには、少し時間がかかった。ついさっきまで私が座っていたはずの椅子が床に倒れていた。

「……金白さん、トイレくらい静かに行かんかい」

 ため息混じりの上司の声。かちりと長針が動いた時計が、午後四時二十三分を指す。

 次の瞬間、私の足は無機質なグレーの床を蹴っていた。それと同時に、右手は鞄をひっ掴む。床に倒れた椅子に右足が当たって、キャスター付きの椅子は床を滑った。机の上のミスだらけの書類が、風でふわりと舞って、斜め前の高嶋の机に着地する。ちょっと、金白さん、という驚いた禿頭の声がうっすら聞こえる。

 事務所のドアを蹴り飛ばす勢いで開けて、廊下を走り抜けた。エレベーターのスイッチを押すのももどかしくて、何年も使っていなかった階段を駆け下りた。ふわふわとした感情が、走っているうちにくっきり浮かび上がる。改札に二回引っかかりながら電車になだれ込む。何度も着信を告げるスマートフォン。家の一つ前の駅で電車を降りたら、潮の香りがした。

 パンプスが折れる嫌な感触も、どうでもよかった。波の音。その向こう側に、自殺の名所があった。ちらほらいる観光客が、全力疾走する私を見ているのが分かった。でもそれもどうでもよかった。

 海が見えたら、あの日と同じ光景が広がっていた。彼と会った。裸足の、薄い色の眼鏡の、あの男。

『俺が先やで』

 聴こえた声を、頭を振ってかき消す。静かに佇む、宇宙人の手を、私の右手が掴んだ。

「アホか!」

 男が振り返る。大きく見開かれた目が、あのどうしようもなく不思議な目が、私を射抜く。

「勝手に死ぬな!」

 掴んだ力が自分でも想像しなかったほどに強くて、バランスが取れなかった。体制が崩れて、私はその場に思い切り尻餅をついた。男もそれと同時に、膝をついた。その時やっと、自分が泣いていることに気付いた。泣き顔、不細工やのになあ。まだ明るさの残る崖の上。情けなく岩で尻を冷やす、いい歳した大人二人。

「……死なんでも、ええやんか」

 ぽつりと呟いた。ぱたぱたと、黒い岩の上に、丸いシミができる。喉の奥の震えが止まらない。上手く言葉が出てこない。この気持ちにぴったり合う言葉も見当たらない。

「……死なんでも、ええやんか」

 もう一度そう言った。それが、今の自分の気持ちに一番近い言葉だった。パンプスの踵が、折れて無くなっていた。履いていたストッキングが伝線している。

「……何してんの」

 思っていたより冷静な声が返ってきた。顔を上げると、眉間に皺を寄せたイトがいた。

「靴ぼろぼろやないか」

「勝手に行かんとって」

「アホか。はよ立てや、みっともない」

 ぐっと手を引っ張られる。大きくて、筋張って、今にも折れそうに白いのに、力の強い不思議な手。立ち上がってからも、私はその手を離さなかった。

「みっともないことすんなや。こんなに見物いっぱいおる中で、死のうとなんかせえへんわ」

 ていうかお前仕事どうしたんや、と呟く男の手を、握り返す。何度も何度も、手に力を込める。そこに彼の手がきちんとあることを確認するように、何度も握り返す。彼の、何も履いていない足を見ながら、手に力を込める。震える声を何とか絞り出す。

「……帰ろう」

 は、と聞き返される。

「帰ろうって言うてんねん!」

 苛立ちと悔しさが入り交じって、無駄に大きな声が出る。異様な空気を放つ私たちの周りには、もう観光客は一人もいなかった。潮風が髪の毛を頬に張り付け、波が弾ける。世界でたった二人しかいないような静けさに、戸惑う心臓。

「なんで怒ってんねん」

「あんたが嘘ばっかりつきよるからやんけ。帰ろう」

「どこへ」

 イトが鼻で笑う。

「どこへ帰れっちゅうねん。帰るとこなんてないわ」

「うちがあるやろ」

 握った手を引っ張った。イトの足は、岩に貼り付いたように動かない。よく見ると、足の親指から血が出ていた。先の尖った石でも蹴飛ばしたのだろう。白い不健康な肌に、血はとても映えた。

「なんでお前の家に帰るんや」

「そこがあんたの家やからやろが!」

 叫んだと同時にもう一度手を引っ張ったら、貼り付いていたイトの足がぐらりと揺らいだ。一歩、右足が私の前に出る。

「帰る家くらい私が用意したるわ」

 お前は、と言いかけて、自分の唇の冷たい感触に気付いた。しまった、と慌てて袖口で拭ったら、唇の上でだらしなく伸びた。

「きったな」

 イトが嘲笑うように吐き捨てた。

「鼻水ぐらい出るわ」

 言い返す。

「ティッシュくらい持っとけや、仮にも女やろ」

 イトが言う。

「女が全員ティッシュ持ってると思うなや」

 鞄の中からハンカチを出して、私は言った。たった何日か会っていなかっただけなのに、こんな意味の無い馬鹿みたいな会話が懐かしかった。

「行くで」

 最後にもう一度手を引っ張ったら、イトの足は岩から剥がれた。ぺたぺたと、小さい子が家で母親を探す時のような音がした。

 裸足のイトと、目を腫らした鼻水女は、二人で電車に乗った。私の手はイトの手首を掴んだままで、仕事が終わったサラリーマン達が、奇妙な物を見るような目付きで私達を眺めていた。

 お前は、私のペットやろ。鼻水に気付く寸前に口から出損ねた言葉は、首の奥で絡まったまま出ては来なかった。

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