銀の糸#4:過

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また、下の階から怒鳴り声が聞こえる。

「なんであんたは何にもできへんの!? お姉ちゃんを見習いなさいよ!」

 がしゃんと何かが割れる音。また皿が割れたようだ。もしかすると、床に晩御飯のカレーライスが散らばっているかもしれない。私は二段ベッドの下で、布団の中に潜り込む。ただ時間が過ぎていくのを待つために、耳を塞ぐ。

 しばらくすると、力無く階段を上る音が聞こえた。布団の外へ這い出すと、部屋のドアががちゃりと開いた。

「ごめん、また起こした」

「寝てへんかったから大丈夫」

 美緒は、夏の日差しに負けた雑草のような格好で勉強机の前に座った。テキストを開きはしたが、文章は読んでいなかった。

「……もう一時過ぎてんで。寝たほうがええって」

「三時までやる。電気眩しい?」

 私はそっと首を横に振った。美緒は、それならよかった、と呟いて、蛍光ペンの蓋を開けた。

 美緒の勉強机と隣り合わせで並ぶ、私の机。その上にかかった、三枚の賞状。

 私は、優等生だった。小学生の時からずっと、成績は優秀だった。授業さえ聞いていれば大体のことは頭に入ったし、予習復習をしていたわけでもなかった。親は私を褒めた。ええ子に育った、あんたはすごい。そう言われ続けた私は、自分がすごいと信じて疑わない、プライドだけが肥大化した学生になった。

「あ、ごめん」

 美緒の声で、目を開けた。目の前に、蛍光ペンの蓋がコロコロと転がってくる。

「ええよ」

 取りに来ようと腰を上げた美緒を制して、私は蓋を拾い上げる。

「ありがとう」

 黄色い筒を受け取った美緒は少し笑った。

 美緒はとにかくいい子だった。プライドの高い私のことを、すごいすごいと褒めてくれた。何事にも一生懸命だった。ただ、成績は良くなかった。授業を真面目に聞いてはいるようだったし、ノートもしっかり取っていた。でも、何故かテストの点数には反映されなかった。親に怒られながら、美緒は毎日夜中の三時まで勉強をした。同じ部屋で眠る私の、視界に入る灯りを気にしながら、必死で勉強していた。

 布団に潜り込んで、美緒に背を向けて丸くなる。ノートとペンが擦れる音。毎日聞くことが当たり前のこの音。私が布団の中でぬくぬくとしているその間にも、ずっと続くその音。

 高校に上がった時、突然勉強についていけなくなった。一番始めの定期テストで、私は過去最低の点数を取った。教卓の前で立ちすくんだ私を、初めて私のテストを見る担任が不思議そうに見ていた。

 眠った振りをしていた。目を瞑って、夜が過ぎるのを待っていた。意味の無い涙が、布団に毎日シミを作っていた。理由を説明出来ない涙が、何度も溢れて止まらなかった。ペンの擦れる音が、私を襲ってくる。私の首を絞める。

 点数の悪いテストを見た時の母の目が、いつも襲ってきた。信じられないと言うような、困惑した、それでいて幻滅した、とにかく私に対して好意は持っていないことが表れたその目は、毎日夢の中で私を追いかけた。中学時代の友達も、私を好奇の目で見た。面と向かって嘲笑う人こそいなかったが、過剰に私を慰めてきたあの子達は、心の中でどれほど私を笑ったのだろう。安易に想像出来ることだ。私はそれから、友達と距離を置くようになった。誰も、離れていく私を止めなかった。優等生だから、という言葉で、既に優等生では無くなった私に壁を作った。

 かこん。小さなその音が、私を一層締め付ける。美緒が机に頭をぶつけた音。微かにぱたぱたと、涙が机に落ちる音。

 いくら勉強してもついていけず、焦った私はカンニングをした。消しゴムのケースに折りたたんだ紙を入れて、覚えられなかった公式をそこに書き込んだ。何故かバレなかった。点数の上がったテストを見て、母は言った。

「なぁんや、やれば出来るやんか」

 テストの点数はぐんぐん上がった。クラス一位で表彰もされた。消しゴムのケースの中にはいつも紙が入っていたのに、いつもバレなかった。早く見つけて欲しかったのに、誰も見つけてくれなかった。麻薬のように、やめられなくなった。先生も親も私を褒めた。友達はまた、ノートを貸してほしいとやって来るようになった。そこでやっと私は気付いた。誰も私を見ていないこと。

 誰にもそれを言えないまま、私はまた優等生になった。妹は優等生の姉に縛られて、夜中まで勉強する羽目になった。涙を流してまで、勉強する羽目になった。優等生のレッテルを貼られたまま、私は大人になった。大人になるにつれて、自分が分からなくなった。深い水の中に沈んでいくような、泥の中で溺れるような、そんな息苦しさの中で、ただとりあえず、息を吸っては吐いていた。

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 ベッドの上で目が覚めたら、そこには美緒も、並んだ机も無かった。薄いテレビと、リモコンが乗ったテーブル、そして、私の好みじゃないライター。そこでやっと、ここは私の部屋で、イトがいないことを理解した。起きて、顔を洗って、仕事の鞄の中にハンカチを入れた途端、化け物みたいな虚無感が被さってきた。

 繋ぎ止めていたはずだった。何もかも与えて、何もかも守って、『私がいないと生きていけないペット』を作り上げたはずだった。大事に大事に育てていたはずだった。いとも簡単に、首輪は壊された。

 水筒に水を入れる音が、海に飛び込んだ時の音に似ていた。頬の横を撫でていく泡。足元に広がる深い黒。手が伸びてきて、足首を掴まれ、引きずり込まれるのではないか、という根拠の無い恐怖。

 糸だ、と思った。首輪につけていたのは、鎖のはずだったのに、糸だった。か細くて、今にも千切れそうな糸。たったそれだけの細い糸で縛るだけで、満足していたのだ。

 水を流し入れていたペットボトルを取り落として、それが水筒に直撃した。落としたペットボトルからも、倒れた水筒からも水が流れ出た。スカートが濡れた。シンクも床も濡れた。

 上手くいかんなあ、と呟いた。何もかも、と付け加える前に、私はその場に座り込んだ。口に出してしまえば多分、壊れてしまうと思った。ぽたぽたとシンクから落ちる雫を無意識に数えながら、私はだらしなく床で尻を冷やしていた。

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