狼に翼を#7:天使と悪魔
蹴落とす。背中に確かに感じるスニーカーの裏側。意志に反して、がくんと前に仰け反る首。
「狼少年」の舞台は、残すところあと五回ほどになっていた。家でワインを開けながら、僕はネットニュースを確認するのが日課になっていた。
あの日から、相川幸の逆襲は始まっている。それはまるで、背中に感じるスニーカーの重みのように、しっかりと僕に痕を付けていた。ネットニュースの見出しから、僕の名前は消えた。消えつつある、ではない。完全に消えた。それが意味するのは、僕の報道はもう注目に値しない、ということだ。
ワインを一気に飲み干す。思わず唾を吐いた。不味い。一体いつ買ったものだろう。ラベルを見て思い出した。確か、映画の主演で賞を貰った時だ。その時付き合っていたあのアイドルの彼女がお祝いにくれたものだった。彼女はワインに関しての知識が薄かった。このワインの味も、半分以上水であるのかと思うくらいに薄い。
『純粋無垢、嘘の吐けない天使』だった僕の評判は、一気に地に叩き落とされた。今や僕に貼られた評判は、『天使を名乗って人々を騙すのを楽しむ裏切り者』となっていた。そんな僕を、世間は捨てた。マスコミも、人々が飽き始めたのを見て僕を捨てた。代わりに、新たなコンテンツを見つけたのだ。
【「天使」に対抗する人物? 気高き姫を演じる「悪魔」とは】
スマホの画面の中で踊る文字列。今やどのネットニュースも、『悪魔』の存在を取り上げていた。
相川幸。彼女は全てを取り去っていった。稽古の時の彼女は、もうどこにも存在しなかった。長台詞を間違えることも、出番を忘れることももちろん無い。それどころか、僕以上の演技力で共演者を順番に殴っていった。彼女の、不安と恐怖と高貴が入り混じった表情は、人々の手に汗を握らせた。
【目立った出演歴の無いこの女優が、こんなにも観客の心を奪うのは何故なのか。その背景を探ろうと努力しても、彼女は誰にも過去を話さず、週刊誌の直撃取材にも頑なに口を開くことは無かった】
謎の多い女優に、人々は心を奪われた。誰もが彼女のことを知ろうとした。でも、彼女は何も話さない。彼女の友人や家族でさえも、何故か未だ突き止められていない。
僕は、全てを話したように見せかけてきた。適度に過去の恋愛歴を話し、適度に家族構成も話し、どんな俳優に憧れるかを熱く語ることもあった。適度に自分を偽らないことで、誰も僕の背景に手を伸ばすことはないと思っていたからだ。だが実際は違った。話せば話すほど、人々は多くの情報を知ろうとする。それを遮ろうと嘘を塗り重ねて作り上げてきた『僕』という存在は、ほんの少し刺激を加えるだけで崩れるほど脆いものになってしまった。
正反対の僕と相川幸を、舞台でメインを飾る僕と相川幸を、人々は面白がってこう呼んでいた。「天使と悪魔」と。
トイレに駆け込んで、胃の中の物を吐き出す。昨日から酒しか口にしていないので、なにも出ない。それでも、何かが腹の中にこびり付いている。吐いても吐いても、出てこない何かが。
【「天使」の不祥事で空席の目立っていた舞台「狼少年」。しかし今、「悪魔」の出現により、当日券が完売する現象が起こっている】
【「悪魔」の魅惑の演技を一目見たいと駆けつけた「舞台ファン」が多いため、都内のホール前は車の通行が一時制限された】
【「天使」人気に胡座をかいていた運営を襲ったまさかの事態。しかし、それを埋め直したのは、「悪魔」の存在だった】
気分が悪いのは、酒のせいだ。もしかしたら、昨日自宅のスピーカーでパンクロックを爆音で鳴らしたせいかもしれない。
今、舞台に「僕」を見に来ている人はいない。
「僕」が主役の舞台で、誰も僕を見ていない。僕のファンは一人もおらず、代わりに客席を埋めつくしているのは『舞台ファン』だけだ。
何が悪魔だ。悪魔は大人しく嫌われ役を演じていればいいのだ。『個性』が謳われるこのクソみたいな世界で、天使を越えていい悪魔など存在しないはずなのだ。
長く舞台に立ってきた人間だから分かる。舞台に立つ僕を見る観客の目は、『飽きている』。もうお前はいいよ。早く悪魔を出せよ。お前の嘘だらけの演技は、もう飽きた。そんな声が、幻聴と分かっていても聞こえてくる。もはや僕の演技は、ただ『台詞を間違えずに言える』というレベルにまで落ちている。欠伸さえし始めそうな観客の前で、台詞に感情を乗せることなど出来なかった。
相川幸。あいつは、僕から全てを取り去っていった。人気も、人の目も、演技力さえも。
分厚くて、元の文がどれか分からないほどに書き込まれた台本。姫らしからぬ、煙草の臭い。
咳き込みながら、膝を折る。トイレの床に座り込む。
そうか、僕も出演者だったのか。便器を抱えながら考える。僕も出演者だったのだ。『相川幸』の物語の、脇役だったのだ。
これは、『天使』の物語ではない。『悪魔が日の目を見る』までの物語だ。ミステリードラマでは、よくある展開じゃないか。最後の最後の、どんでん返し。
口の周りをだらしなく濡らしたまま、トイレの壁にもたれかかる。吐いても泣いても、僕の周りにはもう誰もいない。天使のステータスが崩れた男に、付き合う価値はない。
換気扇の音だけが、僕を包んでいる。まるで、汚い空気がそこにあるかのように。
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千秋楽を明日に控え、午後公演を終える。客席は満員で、千秋楽の競争率はかなり激しいものになると予想されていた。普通、千秋楽の前日は多くの報道陣が入り、取材を次から次に受けなければいけないが、今回取材は一件も無かった。それほどに、今回の『天使の裏切り』は大きな物だったのだ。
ポケットに煙草を突っ込み、劇場の喫煙所に向かう。僕は、堂々と煙草を吸うことを許された。週刊誌にも煙草を吸っている姿が撮られたのだから隠す意味もない。
喫煙所には、先客がいた。長い髪。見覚えのある後ろ姿。
「……ボロボロの天使ね」
「余計なお世話だ」
嘲笑うような顔の相川幸が、僕を見る。
「どうしたのよ、天使さん。口調がいつもと全然違うけど」
僕は相川幸を睨み返す。
「口調が違ったら、なんか不都合でもあんの?」
喫煙所の薄汚れた椅子に座り、僕は煙草を一本取り出した。火をつけ、肺に煙を溜める。
「よかったね、堂々と煙草も吸えるようになって。この調子じゃ、彼女作ってもお咎め無しでしょ。その前にこの世界から消えるかもしれないけど」
相川幸の咥えた煙草の火が、点滅するように赤く光る。この世界。もうそんなのはどうでもよくなっていた。ここまで来れば、地位も名誉もどうでもいい。僕があとできることといえば、人々の記憶から完全に抹消されるのを待つだけだ。
「この舞台が終わったら、辞めるよ」
僕は言う。相川幸の右眉が、ぴくりと上がった。
「一生暮らせる金ならあるし」
ゆっくり煙を吐き出す。白い煙は喫煙所を埋めつくし、やがて消えた。
「ふうん」
相川幸が鼻で笑う。
「金、ねえ」
灰を人差し指で落として、相川幸が言う。
沈黙が、喫煙所の中に流れていく。二人が交互に煙を吐き、灰を落とす作業。短くなっていく煙草。相川幸が煙草を灰皿に捩じ込み、ポケットからもう一本取り出す。
「奇遇ね」
相川幸が、ライターを取り出す。三回目でようやく、火が灯る。
「私も辞めるわ」
じりじりと、煙草の先が燃えていく。僕は、灰皿の存在も忘れて相川幸を見る。燻った灰が、綺麗に掃除された床に落ちる。半開きの僕の口から、行き場を無くした煙が涎のように流れる。汚れた空気が、鼻の前を掠める。
「……は?」
ようやく捻り出した言葉は、どんなドラマでも演じたことの無いような声だった。石と石が擦れ合った時のような、ざらついた声。天使とはかけ離れた、醜い声。まるで、悪魔のような。
「なんで、お前が」
ぎりぎりとめいっぱい首を締める縄。みしみしと音を立てて、骨に到達する。一体この感情は何なのか。どうして僕の腹が痙攣しているのか。
「いい声ね」
相川幸が言った。澄み渡るような声だった。嬉しくて嬉しくてしょうがない、とでも言いたげな声。まるで、天使のような。
「私はね、復讐すんのよ」
「……復讐?」
そう、と言って、相川幸は煙草の火を消す。
「復讐」
反芻するように、もう一度相川幸は言う。首の角度を変える度、髪が羽根のように舞う。
「私の金をアテにしてる親にも、個性を消してグラビアやれって勧めてきた事務所の社長も、私を馬鹿にして勝手にドラマのオファー蹴ったマネージャーにも、今になって演技がどうのって騒ぎ立ててる馬鹿な週刊誌共にも復讐する」
言葉と正反対の、楽しげで爽やかな声が、喫煙所のガラスを震わせている。
「……僕は」
震える声でそう呟く。
「じゃあ、僕は」
無関係じゃないのか。そう言おうとしたのに、相川幸がそれを留めた。
「月刊リストティーヴィー、二〇十六年五月号」
ロボットのように吐き出される、無機質な言葉の羅列。
「『忘れるわけないじゃないですか』」
意味が分からず、眉を顰める。
「……何だよ、それ」
「あんたのインタビュー記事の答えよ。問いは、『名門アクターズスクールに通っておられたそうですが、当時のことは覚えていますか』」
相川幸は、喫煙所のドアを開ける。無臭の空気が、淀みきったこの部屋の中を掻き回していく。
その取材のことは、ぼんやりと覚えている。テレビ誌の取材なんて、大体同じインタビュー内容だ。最近ハマってること、好きな女性のタイプ、行ってみたい場所、ドラマの役柄との共通点。しかしこの問いだけは珍しかった。だから覚えていたのだ。確か僕のその時の役柄は、売れない俳優。
なんでそんな細かいことまで覚えてるんだ。そう言葉を出す前に、相川幸が言った。
「嘘ばっかりじゃない」
ゆっくりと確実な音を立てて、扉が閉まった。まるで、僕と相川幸の間を阻むように。それ以上僕の質問は聞かない、とでも言いたげに。
視線を感じて振り向く。そこには、幼少期の僕が立っている。天才だと持て囃された、あの時の僕がいる。僕の向こう側を、見つめている。
小さい僕の視線の先に、少女が立っている。彼女は泣いている。ぐしゃぐしゃの紙を握り締めて立っている。
僕は、この光景を知っていた。あの日だ。ドラマのオーディションだ。僕はあの日、オーディションに受かって、そうして『天使』になった。
もう一度僕は、小さい僕を見る。ゾッとするほど気味の悪い目で、僕は少女を見ている。
『なんで泣いてるの』
僕が言う。少女が顔を上げる。
『駄目だったの』
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は言う。
『練習では泣けてたのに、泣けなかったの』
そう言って、彼女はまた泣き始める。僕はそれを、真っ黒い目で見ている。
『君はすごいね』
彼女が僕に言う。
『私、君みたいになりたいな』
小さい僕は、どろりとした目をしている。無理やり笑顔を作った彼女を、ただ見ている。
ああ、そうか。相川幸も、あの場にいたのか。彼女は僕を、昔から知っていたのか。なのに僕は、彼女の名前さえも知らなかったのだ。
『君には無理だよ』
突然、小さい僕が言った。小さい相川幸の目が、大きく見開く。
『絶対に、僕にはなれないよ』
僕は、かなり短くなった煙草を床に落とす。覚えている。一語一句、覚えている。厳密には、忘れていた。今鮮明に、思い出した。
『……どうして?』
また泣きそうな顔で、相川幸が言う。このあとの言葉を、僕は覚えている。そうか、相川幸の復讐の一番の相手は、僕じゃないか。僕の震える唇が、小さい僕の唇と同時に動く。
『君は、悪魔みたいだから』
立ち尽くした僕の向こう側を、小さい僕が指さしている。あの日の相川幸は、黒いワンピースを着ていた。
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