狼に翼を#3:本性

 オレンジジュースが飲みたい、と突然思った。

 相川幸はあまり長台詞が得意ではないらしく、稽古は難航していた。やっと一場面が終わったところで、相川幸は早々に稽古場から飛び出して行ってしまった。どこに行ったかなんて僕には関係ない。

 パイプ椅子に座ってギシギシ音を立てるのにも段々飽きてきた僕は、稽古場を出てすぐの自動販売機に向かった。目当てのものを探すけど、オレンジジュースは、ない。だけど舌打ちなどしない。僕は天使だからだ。まるで、これが僕の求めていたものだ、というような澄んだ目でブラックコーヒーを買った。ふと目を上げると、喫煙所にいる相川幸が見えた。ガラス張りの空間で煙草を燻らせる相川幸は、いつもと雰囲気が違う。自然と足がそちらに進んだ。

「煙草吸うんだね」

 喫煙所のドアをノックして、そう言ってみる。ふんわり漂う嗅ぎなれた匂い。相川幸がこちらをちらりと振り返り、また灰皿の方向に目を落とした。返事はない。

「さーちちゃん」

 僕は喫煙所に踏み入れる。椅子に座って、相川幸の顔を覗き込む。相川幸はニコリともしない。いつもの爽やかで明るい笑顔ではなく、冷たい視線を投げかけてくれた。

「そんな顔しないでよ。話してみたいだけ」

 相川幸の眉が、ぴくりと上がった。反応あり。切れ長な目を見据える。五秒。まるで猫の睨み合いみたいに、僕達は目線を交差させたまま動かない。

 しばらくたって、先に動いたのは相川幸だった。くわえていた煙草を口から離す。ぶわっ、と目の前が真っ白に曇った。わっ、と声が出て、僕は後ろにひっくり返りそうになる。勢いよく吹きかけられた煙は、僕の顔と髪に絡みつき、めんどくさそうに消えた。

「ちょっ……何」
「何はこっちの台詞なんだけど」

 冷ややかで、重い声。

「あーあ、ほんっとにめんどくさい。話しかけんなオーラ出してんのに、ほんと空気読めないのね」

 話すたび、口からふわふわと出る煙。ロボットだ、と自然と思っていた。

「あと、私の名前、『サチ』じゃないから」
「えっ」
「読み方『コウ』だし。私に興味あるんだったら、それくらい調べたらどう? 薔薇の花から生まれた天使さん」

 ふん、と鼻を鳴らし、相川サチ……ではなく相川コウは右の口角だけを上げて笑った。

「……演じるの、上手いんだね」

 皮肉たっぷりに言いながら、僕は乱れた前髪を手櫛で整えた。煙の匂いで、自分の口も煙草を欲するようになってくる。

「こっちが本性だけど。煙草も吸うし酒も飲む。彼氏だって取っかえ引っ変えするし、舌打ちだってする。人間ってそういうもんでしょ」

 まだ四分の三残った煙草を、灰皿にねじ入れ、相川幸はそう言った。喫煙所のドアを蹴飛ばすように開け、そこで振り向く。

「あんたも煙草吸ってるのね。もっとキツい香水に変えた方がいいよ。私、鼻だけはいいの」

 ガラスが飛び散りそうな勢いで、ドアが閉まる。煙草の残り香が周りを取り巻く。ふと銀色の灰皿に映った僕が見える。僕の顔は酷く歪んでいる。何が、天使だ。頭を掻きむしりたい衝動を必死で抑える。馬鹿にしやがって、と叫ぼうとする喉を必死で閉める。頬が痙攣するのを右手で叩く。

『人間ってそういうもんでしょ』

 きーん、と耳と頭を繋いでいる部分が痛くなった。僕の顔は、お世辞にも天使とはいえない形相だった。

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