銀の糸#9:進

本当にイトが誰かを殺した訳ではないことは、なぜか分かっていた。あの日、夕陽の前で流していた涙を見て、根拠も無くそう思った。イトは何かに縛られている。過去の何かにずっと縛られたまま、生きている。スーパーの前の煙草の自動販売機で、メビウスとセブンスターを買いながら考えた。そんなイトの過去も知らぬまま、綺麗事を並べていたことが情けなかった。あの日、イトと並んで電車に乗るのがほんの少し嬉しくて、まるでデートに行く時のような服を選んだことを恥じた。

 買い物袋を下げたまま、定期をかざして改札を通った。イトの後ろ姿が、目の裏に浮かんでは消える。今頃、家のソファで寝転びながらテレビでも見ているのだろう。優秀で、健気で、どうしようもなく脆い、私のペットだ。私の作った夕飯を無言で食べ、食器を下げて煙草を吸い終わって風呂に向かう時に「美味かった」とだけ呟く、私のペットだ。捕らえておきたいと思うのは、間違ったことなんだろうか。腕を掴み、見苦しく引き摺られるのは、おかしな事なんだろうか。

 ふと我に返ると、電車のドアが閉まるところだった。閉まるドアの向こう側に、降りるべき駅名が見えた。しまった、と腰を浮かせても、どうにもならない。電車はまた動き出すし、私のために止まることもない。私はそこに乗っているだけで、それを操ることは出来ないのだ。

 一つ次の駅で降りると、急に人通りが多くなる。この辺りで二番目に大きな駅。そこで私は、似合わないスーパーの袋を持って立っていた。電光掲示板を見る。家に戻る電車は、十分後に来るようだ。自然と舌打ちが出た。脳内のだらしない男を蹴飛ばす。全部あいつのせいだ。あいつと出会わなければ、こんな事にはならなかった。

 近くの喫煙所に入り、袋からセブンスターを取り出す。煙を思い切り吸い込んで、吐き出した。買い物袋を席に置いて、その隣にどさりと腰を下ろす。やり場のない苛立ちを煙で絡めとっては、無理やり吐き出す。

 かちゃりと喫煙所のドアが開く音がした。無意識に隣の買い物袋に腕を通す。

「こんなとこで会うとは思わんかったわ、なあ、金白さん」

 名前を呼ばれて振り向いた。振り向いて、相手の顔を見る直前に、それが誰の声だったか理解した。

「呑気に煙草吸うてんちゃうぞ」

 へらへらした顔と、ダサいブランドバッグ。こいつの名前は高嶋だったな、と思い出すのに時間はかからなかった。

「え、誰なん?」

 だが、高嶋の後ろにもう一人いることを理解するまでは時間がかかった。甘ったるい声が、高嶋の服の裾を掴んでいる。

「こないだ言うたやんけ。会社で突然走って出て行って、連絡つかんようになった阿呆がおるて」

 楽しそうな声が、私の目の前に立った。私はもう一度、脳内の細い男の背中を蹴り飛ばした。お前のせいだ。全部全部、お前のせいだ。

「お前が来んようになって、俺の仕事がめちゃくちゃ増えたわ。お前の分も全部俺がやることになってんぞ。感謝せえやお前」

 早口で、高嶋はそう言う。感謝も何も、お前が何もしなさすぎたんやろが。丁度ええんちゃうか、仕事覚えられるきっかけが出来て。もちろん、心の中で唾を吐くのが精一杯だった。

『弱虫やなあ』

 口の端を上げて笑う、イトの声がする。黙れ、お前に何が分かる。

「おいこら、聞いとんかお前」

 もう、女の子に向かってやめえや、と裾を引っ張る後ろの声も、ほんの少し笑っている。口の上手い高嶋のことだ。きっとこの後ろの女の子に罪はない。いかに私が悪く、手のつけられない問題児であるかということをすり込まれているのだろう。

「逃げとんちゃうぞお前!」

 ぐらりと視界が揺れた。半笑いの男の顔が、目の前にある。汚らしい口元が歪む。頭皮が後ろに引っ張られている。男の手が掴んだ髪の毛が、ぷちぷちと、一二本抜ける感触がした。

「はよ戻っといでや、金白さん。俺らみんな待っとるねんで」

 私の持っていた煙草が、高嶋の足によって叩き落とされた。いきなり解放された頭の重みに耐えられず、首ががくんと後ろに折れた。

「ほんま乱暴やなあ、あんた」

「こんくらいせんと分からんのやって。甘えたことばっか抜かしよったら生きていかれへんわ」

 二人の声が遠ざかっていく。ひりひりと痛む頭皮を、平静を装うためだけに撫でた。

 一連の動作の素早さが、高嶋の狡さと臆病さを物語っていた。誰にも見つからない間に、確実に相手の心臓に傷を付けていくやり方が、仕事の時と同じだななどと考えていた。でも何より、頭皮の痛みよりも、彼女へのパフォーマンスとして私が使われたことに腹が立った。

 叩き落とされた煙草が、私の足の間で燻っていた。それを拾い上げ、備え付けられた灰皿にねじ込もうとした。

『逃げとんちゃうぞお前!』

 嘲笑うような言葉が耳と脳を突き破る。髪の毛の抜けたであろう部位の痛みがじわりと広がり、この空間全部を包み込むような感覚。灰皿にねじ込もうとした煙草が、蛍光ペンの蓋に変わる。

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 転がってきた蛍光ペンの蓋を拾い上げ、美緒の手に乗せた。

「ごめん、ありがと」

 微笑んだ美緒の前で、深呼吸をした。

 私は、学生生活を終えようとしていた。就職を選んだ私に、担任は抗議した。優秀な成績を持っているのだから、進学をした方が良い。熱い体育教師は、大学がいかに良いところかを熱心に語った。私はずっと首を横に振り続けた。大学に行く資格が、私には無かったからだ。

「美緒、あのな」

「何?」

 テキストに一生懸命線を引きながら、美緒は笑顔で答えた。

 なぜ大学に行けないか、私は正直に告白した。高校時代の学習内容は、ほとんど出来ないこと。本当はクラス一位などではないこと。悪い点数を取ったこと、その時の母の態度、消しゴムの中身。洗いざらい全部話した。

 美緒は黙って聞いていた。線を引く手も止めて、聞いていた。

「……美緒、隠しててほんまにごめん」

 そっと頭を下げた。こんな姉でごめんと、何度も謝った。沈黙が続き、ぽつりと言葉が降ってきた。

「死ねばいいのに」

 その日から、美緒は私を避けるようになった。友達の家に入り浸るようになり、滅多に帰ってこなくなった。そうしてついに、万引きで捕まった。迎えに行くのになぜか私も駆り出され、母と二人で頭を下げた。どうしてこんなことをしたのか、と聞かれた美緒が呟いた。

「姉のせいです」

 美緒はほとんど家にいないようになり、同時に母も私と言葉を交わさなくなった。もしかすると、美緒が母に伝えたのかもしれない。だが、それを学校にまで伝えるのは、母のプライドが許さなかったのだろう。

 卒業と同時に、私は就職して逃げるように家を出た。逃げている自覚はあった。でも、何に立ち向かえばいいのか、分からなかった。

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 電車に乗って、また家を通り過ぎた。気付いた時には、自殺の名所に立っていた。

 悪いのは、誰なのだろう。カンニングをやめられなかった私だろうか。カンニングするまでのプレッシャーを作り上げた母だろうか。全部バラして関係をめちゃくちゃに壊した妹だろうか。一体どこで、全てが狂ったんだろうか。

『弱虫やなあ』

 また、イトの声が聞こえる。その通りだった。私は弱虫だった。全部全部、イトの言う通りだった。去ってしまえば、逃げられると思っていた。逃げ回っていれば、いつか消滅すると思っていた。でもそうじゃなかった。逃げても逃げても、意味はなかった。いくら逃げても、繋がれた鎖が解ける訳ではなかった。走り回れば回るほど、鎖は体に絡まった。そうしてどんどん、身動きが取れなくなっていた。

『死ねばいいのに』

 水の中で、服が腕に絡まる。水を吸った服が、体全体を縛ったまま底へと引きずっていく。息が続かなくなる。腕を回しても、足をばたつかせても、浮かび上がらない体。

『逃げとんちゃうぞお前!』

 もがけばもがくほど、光は遠ざかる。手を伸ばす。光が手で隠れる。闇の中に放り出される。重くなった足が、運動を拒否する。喉の奥の風船のような空気の塊が、爆発する。

『逃げてばっかりって言われんの、めちゃくちゃ腹立つわ』

 突然、微かに見えていた光が遮られる。筋張った手に、私の手首が掴まれる。重かった足が、嘘のように浮き上がる。ざばりと顔を出せば、呆れた顔でこちらを見ている男がいる。

「なんや、俺には偉そうに言うといて先飛ぶ気か」

 振り向くと、スウェット姿のイトがいた。

「腹減ってんけど。何時や思てんねん」

 慌ててスマホを取り出した。七時半を過ぎていた。

「ごめん」

 言うと同時に、涙が出た。急に、引っ張られた髪の毛の部分が痛み出した。

「何泣いてんねん」

 気色悪い、と吐き捨てられる。ごめん、ともう一度呟く。イトが、私の腕にかかった買い物袋をひったくる。

「はよせえや」

 言いながらも、イトは歩き出さなかった。手で涙を押さえる私の前に、立ったままだった。

 静かに吹く風に乗って、薔薇の香りがした。きっと弱虫なのは、お互い様なのだ。

「……私、もう逃げんわ」

 なんとか口に出した。

「……そうか」

 イトも呟いた。

 いつまで経っても歩き出さない私の手を、イトが掴んだ。引っ張られたのに、これっぽっちも痛くなかった。

「……明日からバイト行くから」

 イトが言った。

「は? いつの間に」

「今日ふらふらしとったら募集の張り紙見つけて、ふらっと入ったら採用になった。カフェのホール」

 そうか、と私は言った。鼻をすすったら、つんと目の奥が痛くなった。

「……飯、作れるようにならんとあかんからな」

 割れた卵の黄身が、ボウルの中で揺れる。左手の手首を掴まれている感触に、意識を集中する。走り出した電車の中には、私たち二人しかいなかった。

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