銀の糸#2:繰

 「どうせなら一緒に死ぬか」

 表情の変わらない男は、ある日そんなことを言った。一緒に花見にでも行くか、くらいの軽い言い方だった。

「は」

 フライパンで魚を焼いていた私はそう言った。イトは魚が嫌いだった。魚が嫌いだから、そんなことを言ったのかと思った。だけど、魚と死ぬことにはなんの関連も無いはずだ。じゅうじゅうと音を立てるフライパンが、煙を上げている。

「焦げんで」

 イトが不機嫌そうに言った。

「あんたが訳の分からんこと言うからやんか」

「焦げた魚なんか食わんぞ」

 わがままばっかり言うなや、と言って、魚をひっくり返した。やっぱり少し焦げていた。後で焦げたところは、箸で取ってしまえばいい。きっとイトは、身を骨から取るのに苦戦するだろう。その時は、私が取ってやればいい。魚から立ち上る煙が、イトの吐き出す副流煙に似ていた。

「これも何かの縁やろ」

 冷凍庫から取り出したアイスキャンデーを咥えながら、ぽつりとイトは言った。こんな訳の分からない関係を、『縁』と呼んでいいのだろうか。私には彼が理解できなかった。

 それからというもの、一ヶ月に一回、あの自殺の名所に足を運んでいるが、なぜか二人とも一向に飛べずにいる。その度に、顔を見合わせ、鼻で笑って言う。「弱虫やなあ」。その言葉は、相手に向けられたものなのか、自分に向けたものなのか、定かではない。

「イト」

「なんやねん」

 うっとおしそうに振り向くその目が真ん中を射抜く。自分の気持ちがよく分からなくなって、半年。この宇宙人は私の心まで侵略しつつあった。

「呼んだだけや」

「なんや、めんどくさい」

 イトが立ち上がると、ふわりと漂う煙と、甘いローズの香り。背中に問う、『まだ死にたいのか?』。もちろんこの問も、相手に向けられたものなのか、自分に向けたものなのか、はっきりしなかった。

 気付けば、家の中にイトの物が増えていた。歯ブラシ、掛け布団、枕、スウェット、食器、紫色のライター。毎日一つずつ増える生活感が悔しい。一人でいた時よりずっと居心地がいいのは何故だろう。もう少しこのままでもいいんじゃないか。もう少し生きてみてもいいんじゃないか。

「なあ」

 イトが煙草を灰皿に押し付けた。

「俺らが死ねんのは、死ぬのが怖い弱虫やからやないんちゃうか」

「……なんや突然」

 イトの首筋を、汗がつつっと走った。

「俺らが怖いのは、死ぬことじゃなくて、水ちゃうか」

「何の話やねん」

「練習しよう」

 はあ、と眉をひそめる。

「低い所から始めて、徐々に高くしていくねん」

「待て。何の話か説明せえ」

「飛び込みの話や」

 自信満々に、軽く胸まで張って飛び降りの話をするイトの目が何を考えているのか、私は読めない。これまでもそうだったし、これからもそうなのだろう。

「練習しよう」

 もう一度、イトが言う。何故少し楽しそうなのか、私には分からない。あの日、あの時、あんな出会い方をしてさえいなければ、もっと普通にいられたかもしれない、もっと何かが変わっていたのかもしれないのに。あんな出会い方でなければ、この不思議な男は、そんなことを言わなかったはずなのに。

「……分かった」

 そう答えるのが精一杯だった。ほんの少し震えた声を誤魔化すように、煙草に火をつけた。着実に死への道を進んでいくこの男を、私は止められなかった。ずるずると引きずられ、私も着実に死へと近づいていた。それでも、私は言えなかった。この灰色の宇宙人を捕らえておく方法は、彼の言う通りにすることしかなかった。じっ、と煙草の灰が床に落ちた。

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 もしも、ごくごく普通の両親がいたら、この光景をどう見るのだろう。ふわりとそんなことを思った。

 飛び込みの練習をしに来たはいいものの、タオルを忘れたことに気付いたのは夕方になってからだった。このままでは電車に乗れないので、とりあえず周りの人の迷惑にならない程度に体を乾かすことにした。

『飛び降り』の練習をしているところを見たら、普通ならなんと言われるのだろうか。そんな馬鹿なことはやめなさい、だろうか。知らない男と二人並んでいるのを見たら、何というはずなんだろうか。付き合ってるなら紹介しなさい、だろうか。

 考えても無駄なことだった。私にまともな親がいたことは未だかつて無い。一人暮らしの娘に電話の一つも寄越さないような、自分のことしか考えていない親である。男と二人でいようが、その男と一緒に死のうが、あの人たちには関係の無いことなのだろう。

「……煙草忘れたわ」

 ポケットを探って、不機嫌そうにイトが言った。もし忘れずに持ってきていたとしても、今頃は水が染みて使い物にならなかっただろうに。

 辺りが暗くなり始めても、服は乾かなかった。涼しくなってきつつある風は、逆に服を素肌に貼り付けるだけだ。乾かない服を、何度も絞った。水が出なくても、何回も絞っていた。

 ただひたすらに、生きる意味を探した。何度も何度も、生きる意味を探した。何かと理由をつけて、だらだらと生きようとしていた。何とかして見つけた意味を、隣でTシャツを絞る彼にも押し付けたくて仕方がなかった。でもそれを認めたくなかった。

「……あんたは」

 私は、隣に座る綺麗な顔に問う。

「あんたは何で、死のうと思ったんや」

 聞いてから後悔した。そんなことを聞いたって何もならないじゃないか。聞いたからといって、私がどうこうできる問題ではないじゃないか。だけど、聞いてしまった。馬鹿な私がどうにか出来ることなら、どうにかしてやろうと思ってしまった。それでこの男が思いとどまるなら、何でもしてやるつもりだった。

「……好きな人が、死んだから」

 ざーん、と波の音が繰り返し聴こえる。海の波を見つめる宇宙人を、ただ静かに見つめる。薄い眼鏡の奥の、濁った池の色のような瞳が、紺色の夜に溶けている。瞳に入った光が、小さな星のように何度も瞬く。揺れる前髪が、眉を撫でている。今にも消えてしまいそうなほど細い指が、行き場を探して岩をなぞっている。

 用意していた言葉は、喉の奥で絡まったあと、ついに出なかった。その言葉はあまりにも自己中心的で、身勝手で、おこがましすぎたのだ。

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