狼に翼を#4:化けの皮

 リハーサルは難航していた。相川幸の台詞には問題はないものの、リハーサル中に大道具が倒れるアクシデントが起こってしまったのだ。幸い誰も血は流さなかったが、そのせいで現場には塩辛い空気が漂っている。大道具を直す間、妙に開いた時間を潰すキャストは、まるで人形のようにふらふらしている。もちろん、僕もその中の一人だ。

 昨日アップしたブログの反響がよかったためか、鶴田は今日も五分おきにスマホをチェックしている。僕が早く記事を書いて鶴田に送ることを望んでいるようだ。残念ながら、今日僕は記事を書く気は無い。代わりに僕はスマホを開いて、流行りのSNSを眺めていた。

【仕事めんどくせ。時間経つの遅い】

 アップボタンを押す。時間の流れと共に、僕の投稿は下へ下へと押し流されていった。先日、アカウントの鍵マークを外した。芸能人ぶった匂わせをする気は無いし、名前も本名にかすっていない。どこからどう見ても、無名の一般人のアカウント。だから、反応などない。僕はまたスマホを叩く。

【腹減った】

 煙草の代わりに口に放り込んだガムが不味い。メイクの女の子に貰ったものだから文句は言えないが、ただただ不味い。目を覚ますためだけの鋭いミントは、僕の口には合わない。

 ごとん、と音がした。ぴりついた空気がぴしりと凍る。僕は、隣に音を立てて座った相川幸を見る。

「……何を怒ってるの?」

 僕は聞く。相川幸は答えない。差し入れの饅頭の包み紙を剥いて、一口で頬張る。音の招待が相川幸だと気付いた空気は、少しづつ溶け始める。

「……何で僕の隣に座ったの?」

 嫌いなんでしょう、僕のことが。言わなかったが、きっと向こうも言いたいことが分かったのだろう。僕を一瞥して、饅頭の包み紙をビリビリと破いた。

「あんたの隣しか空いてないの」

 ふと振り向いてみると、舞台の裏に設けられた休憩所のソファには、坂口章隆が座っていた。彼はいわゆる『大御所』と呼ばれる俳優で、この中で一番芸歴も長い大ベテランである。性格は温厚なのだが、なにせ目つきが怖いので誰も近寄らない。

「坂口さんは怖くないよ」
「誰も怖いなんか言ってない。怖いのはどちらかというとあんたの方よ」

 破いた包み紙をぐしゃぐしゃにして、ポケットに無造作に突っ込んだ。僕はまたスマホを見るふりをしてキーボードを呼び出す。

【また面倒なのに捕まったっぽい。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに】

「猫被って、嘘で固めた生活して、虚しくないの?」
「……何の話?」
「あんたの話よ、他に何があるの」

 真っ直ぐな瞳に射抜かれる。何も見たことないような澄んだ目で、それでいて何もかも知っているような真っ黒な目。

「猫被ってるかなあ。僕は僕らしくしてるつもりだけどね」
「そういう話し方もムカつく。あんた何歳? 五歳児じゃないんだから」

 相川幸は、イライラしたように右足で貧乏揺すりを始める。

「そんな事言われても。僕の話し方はずっとこれだよ」
「気色悪い」

 眉間に皺を寄せて吐き捨てられる。良い気分ではない。スマホの電源を切って、鞄に投げ入れた。

「言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに」

 え、と僕は顔を上げる。相川幸が、パイプ椅子の背もたれに体を預けて呟く。

「いつもそういう言い方しかしない。テレビでもラジオでも雑誌のインタビューも、いつもそう。言いたいことはあるけど、それをあえて言わない僕は気が利くとでも思ってるのか知らないけど」

 心を読まれたのかとも思った。僕は無理やり口角を上げる。

「へえ。嫌いな割に結構僕のこと見てくれてるんだね。嬉しい」
「共演するなら当たり前でしょ」

 忌々しい、という言葉が似合いそうな顔で、相川幸が言う。

「あんたみたいに、共演者の名前もろくに呼べないような奴にはなりたくないの」
「その点はほんとごめんね」

 僕は頭をかいた。

「知らないくせに下の名前で呼んでくるのもイラつく」

 相川幸はポケットからもう一つ饅頭を取り出した。
 本番行きます、のスタッフの言葉に立ち上がる時、相川幸のポケットからはらりと落ちた破れた包み紙。リハーサルが終わる頃には無くなっていた。

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 次の日は久しぶりのオフだった。本番の二日前にオフを貰えるなんて異例の事態だったので、予定もない。

 鶴田から三十件電話がかかっていたのに気付いたのは、お昼の十二時を過ぎた頃だった。ベッドの中で、ごそごそと電話をかけ直す。

「もしもし、鶴田?」
『何やってるんですか』

 昼まで寝ようと思って、という言葉を飲み込む。いつも冷静沈着な鶴田の声が少し裏返っていた。ああ、何かあったんだ。そして、その『何か』の原因はきっと僕だ。二秒ほどで全てを悟るほど、鶴田の声は苛立っている。

「なんかあったの?」
『呑気なこと言わないでください。SNS見てないんですか?』

 見てないよ、と僕は言う。さっきまで寝ていたのだから。

『見てください。それで悟ってください。裏に車回しますので。では』

 ぶつん、と電話が切れる。言われるがままに自分のアカウントを開いた。鶴田の怒りの理由は、探さなくても飛び込んできた。

【やっと捉えた、イケメンの素顔!『薔薇の花から生まれた天使』の本性!? 清純派女優、舞浜愛梨との熱愛発覚か】

 某週刊誌のアカウントにでかでかと貼られたリンク。ご丁寧に写真までついている。愛車に乗って僕のマンションから出て行く舞浜愛梨と、それを眺めるようにベランダで立っている、煙草をくわえた、僕。それだけではなかった。いつ撮られたのか分からないツーショット。愛梨と腕を組んで夜の街を歩くマスク姿の僕。

 極めつけに、僕のSNSのアカウントの写真。しまった、と僕はアカウントを開く。驚くほど増えたフォロワー。ぴこん、とまた一つ、フォロワーが増えた。設定のボタンを連打して、鍵マークを付けようとしたが、もう遅い。きっと今鍵をかければ、怪しまれる一方だろう。僕のものではない、という言い訳もしづらくなる。

 特定のきっかけは、『絨毯の柄』。先日出たバラエティ番組で、僕の部屋公開をした時の絨毯と、このアカウントの写真に映り込んでいた絨毯の柄が一致したのだそうだ。盲点だった。極力このアカウントには写真をあげないようにしていたのだが、先日ワインをソファに零したのがあまりにショックで、投稿してしまっていたのだ。

 とりあえず、

【待って、なんで俺のアカウントこんなフォロワー増えてんの、笑】

 とだけアップする。悪あがきでも構わない。

 着替えながら、回らない寝過ぎた頭で考える。本番を二日後に控えたこのタイミング。週刊誌の記者はこの時を待っていたに違いない。こういった類の報道は、大きな仕事を控えた直前に出されることが多い。ジーンズに小指の爪を引っかける。思わず慌てて外すと、バランスを崩して床に尻を叩きつけた。

 膝までしか上がっていないジーンズ、脱ぎかけのTシャツ、ベッドからやる気無さそうになだれ落ちた掛布団。分かりやすく動揺している自分が情けなくなる。スマホの振動がまた始まる。ぶーっ、ぶーっ、と音を立てて、新種の虫のように机を移動している。窓の外で烏が鳴く。ゴミ収集車の雑な音がそれをかき消す。

 俺も連れて行ってくれ、と叫びたくなった。守り抜いてきたはずの唯一の何かが、どこの誰かも分からないカメラマンに壊される瞬間。こんな情けない天使など、この世に存在してよいはずがない。都会のど真ん中にも、ゴミ収集車は来るのである。

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