狼に翼を#6:天才

 ソファの前のガラステーブルに、台本を放り投げた。同じ台本が二つ並んでいる。一つは、僕の台本。もう片方は、先日相川幸がパイプ椅子の上に忘れていった台本。同じ台本なのに、厚さが違う。

 僕はため息をついて、キッチンのワインセラーからワインを取る。グラスに注ぎ、一気に飲み干す。

 そんな飲み方勿体ないじゃん、と、昔誰かに言われた。誰だったかもう思い出せない。高いワインなのに、ゆっくり飲んだ方がよくない? そうは言われても、僕はこの飲み方でないと飲んだ気がしないのだ。立って、一気に煽った方が、喉が焼ける感覚が鮮明に感じられるじゃないか。ワインだろうがウイスキーだろうがバーボンだろうが、全部同じだ。

 相川幸の台本は、一体何度読めばこうなるのかというくらいボロボロだった。赤いペンで乱雑に書き込まれていた情報は、膨大な数だった。特に姫の独白シーンの書き込みは異常だった。多分風呂に持ち込んだであろう台本は水を吸い、端が折れ、鞄の中で擦れて色を失って掠れ、僕の台本の倍ほどの厚さになっていた。

 煙草に火をつけて、またソファに戻る。自分の台本をぱらりと捲る。一度読めば内容は全て覚えてしまうから、一回しか開いたことがなかった。薄くて、綺麗で、まっさらだった。

 僕と一緒だった。綺麗に着飾って、白くまっさらで、でも中身は紙のように薄っぺらい。だからなんだって言うんだ。僕の何が、間違ってるっていうんだ。あいつの何が、僕と違うんだ。

 机の上のガラスの灰皿がいっぱいになっている。ロンドンにロケに行った時に一目惚れして、カメラの回っていないところでこっそり買った灰皿。灰と煙草の吸殻で真っ黒になって、もう見る影もない。僕と一緒だ。これも僕と一緒だ。うるさい。だからなんだっていうんだ。

 机の上から灰皿を叩き落とした。大きな音を立てて割れてくれればよかったのに、あの絨毯が衝撃を吸収した。灰皿はヒビも入らず、代わりにいっぱいの灰が絨毯にぶちまけられた。

 天使だ。僕は天使だ。僕は天使で、薔薇が似合う。そうやって育った。だからそれが真実だ。

 スマホの通知が鳴り止まない。見たくはない。どれもこれも、誹謗中傷だ。

「信じてたのに」

 耳の奥で鳴り止まない。うるさい。知らない。お前達が勝手に信じただけだろ。僕は信じてくれなんて、一言も言っていないのに。僕は自分のやりたいことをやっていただけだ。何が悪い。

「人間って、そういうもんでしょ」

 相川幸の声が響く。初めて会った時に吐き捨てられた言葉だ。無性に腹が立つ。お前は、お前はいいよな。そうやって何も隠さず、何も背負わずに生きてこれて。『そういうもん』で全部片付けられて。僕は違う。僕はお前とは違う。背負っているものも、過去も未来もその先だって、いつだってお前とは違うんだ。長台詞が苦手で、NGを何度も出して、そんなお前と僕は違う。僕は完璧で、完全で、天才なんだ。それを、たかが週刊誌に全部ぶち壊されてたまるか。

 ふいに、初日の相川幸演じる姫を思い出す。稽古の時、長台詞を何度もやり直しては頭を下げていた相川幸の姿はどこにもなかった。というより、『あの舞台に相川幸はいなかった』。そこにいるのは名もない姫であって、相川幸ではなかった。主人公は僕なのに、主人公よりも出番が少ないにも関わらず、あの場にいた客はみな姫に呼応するように息を飲んでいた。あの独白のシーン。どうしてだ。あいつは天才ではないはずなのに。薄いスポットライトが、あの場所で確かに陽の光に見えたのはどうしてだ。

 電話が鳴っている。表示は鶴田だ。構うものか。僕は煙をスマホに向かって吐き出す。髪の毛を両手でぐしゃぐしゃと掻き回す。指に絡みついた髪が、ワイングラスの中に落ちる。

 そうか。僕も同じだ。僕もそれと同じだ。僕は誰にも『隠して欲しい』なんて言われていない。それなのに、綺麗に見せるためだけに、隠して閉じ込めて、その責任を取りたくなくて、誰かに押し付けようとしている。

 僕は、相川幸とは違うんだ。

「……ふざけんな」

 何が天使だ。何が天才だ。そんな肩書きに縛られて、僕を見失ってたまるか。

 絨毯に落ちた灰を踏みつけて、シンクに煙草を放り投げた。そのまま風呂場で服を脱いだ。

 だけど、僕はどうすればいいんだ。

 シャワーを頭から浴びながら、意識が遠のく。僕はその格好のまま眠りに落ちていった。

---

「これ」

 本番二日目が終わった。初日より客は増えていたものの、空席の方が目立っていた。

 相川幸はというと、独白シーンで驚く程に観客を巻き込み、裏で見ているスタッフでさえ見とれるほどだった。先日相川幸が置いていった分厚い台本を手渡す。

「なんであんたが持ってるの」

 鞄を肩にかけ、煙草を咥えた相川幸が言う。

「この間、椅子の上に忘れてたんだよ」
「だからってあんたが持ち帰る理由にはならないでしょ」

 ぐっと喉が鳴りそうになるのを堪える。相川幸は汚物でも見るかのような目でこちらを見た。

「まさかとは思うけど、中身見たんじゃないでしょうね」

 見てないよ。言おうと思ったが、声が出なかった。くだらない嘘をついても、何故か相川幸にはバレる。そんな気がした。押し黙った僕を睨みつけ、相川幸は煙を吐き出した。

「本当に救いようのないくらいのクズね」
「無茶苦茶だなあ」
「無茶苦茶なのはあんたでしょ。熱愛出して私たちに散々迷惑かけた上に、プライバシーまで侵害しに来るとか」

 大きなため息が聞こえる。相川幸の言うことは間違っちゃいない。だからこそ何も言い返せなかった。

「……台本、凄かったよ」

 僕が言うと、相川幸の口が歪む。

「僕はあんなに台本を読み込んだことないよ」
「でしょうね」

 嘲笑混じりで相川幸は言う。

「あんたは天才で、努力なんてしなくても出来ちゃうからね。私はあんたみたいにはいかないの」

 皮肉たっぷりに吐き捨てる相川幸の顔が歪んでいる。僕は天才だ。昔からずっと、ずっとそうだった。

「……台本、読み込んでるから役を演じるのが上手いんだね」
「当たり前でしょ」

 相川幸は、僕が差し出していた台本をひったくる。パラパラと捲る。紙と言うより、板のようになったページ。

「……私はあんたにはなれないから」

 ぽつりと相川幸が言う。

「え……?」
「分かるでしょ。私はあんたにはなれない。あんたが私になれないのと同じで」

 台本が鞄の中に押し込まれる。

「だから、こうしないとあんたをぶちのめせないのよ」

 かん。遠くで何かが転がる音がする。小道具が落ちたんだろうか。そんなことはどうだっていい。

「私はね、あんたが大っ嫌い。努力もしないで、大人にヘラヘラしてるだけで、何もかも整えられていったあんたが、心底嫌い」

 煙草の煙と共に吹き出す言葉が、紫色の毒のように流れ落ちている。相川幸の口の端から滴り落ちて、床を溶かしている。

「だからあんたをぶちのめして、消すって心に決めたのよ。六歳の時から」

 え、と声が出た。

「あんたは覚えてないでしょうね。あんたは天才だから、凡人とは違うから、誰のことも覚えてないんでしょ?」

 紫色の毒が、相川幸自身も溶かしている。溶けて小さくなった相川幸が、こちらを見ている。ばちばちと、昔の映画のフィルムのように、目の前の色が無くなる。目の前の相川幸は、幼くなった。

 あの日。あの日の目と同じだ。羨望と、怒りと、それから憎しみ。

「……君も、いたんだ」

 レッスン室の扉が閉まる寸前、隙間から覗いた鋭い目。どうして彼らは、彼女らは、泣けなかったのだろう。

「いたよ」

 幼い相川幸が言う。

「絶対あんたを忘れないって思った」

 ああそうか。僕のインタビュー記事のことや、番組での発言を知っていたのも、そういう理由か。紫色の毒が、僕の足元に広がっている。

「チャンスが来たんだ。やっとお前を、蹴落とせる」

 にやりと笑った相川幸の唇に、閉じ込められる。奈落の底。そんな言葉が、頭の端を掠めて行った。

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