銀の糸#13:溶

いつものスーパーでもらってきた段ボールには、『除菌ウエットティッシュ』と書かれていた。イトの布団と服などはそこにしまい込んだ。何日もゴミの日を迎えたのに、段ボールはずっとクローゼットの中に入ったままだった。

 私は、電車に乗っていた。一定のリズムで来る揺れと同じように、心臓も揺れていた。

 イトは、三好さんの『息子』になった。イトには家族が出来た。帰る場所も、出来た。

 それを考えたら、無性に泣きたくなった。イトは帰ってこない。帰る場所が出来たからだ。飼い主であった私は、務めを果たした。だからもう、終わったのだ。

 三好さんの家と反対方向の電車で、二千円分揺られた。高校を卒業した時にはなるべく遠い場所と思った距離が、たった二千円ぽっちだったことを情けなく感じた。電車を降りたら、懐かしい、良い思い出のない風景が待っていた。

 家の近くのコンビニでは、一度も買い食いをしなかった。真面目な優等生は、買い食いなどしない。数台しか通らない道路の信号も、無視したことはなかった。表彰されるような品行方正な生徒は、信号無視などしないものだ。

 周りを見渡す度、段々と自分の着ている衣服が溶けだすような感情が押し寄せた。衣服は溶け、空気に混ざっていく。代わりに、長いプリーツスカートが足にまとわりつく。縄のように固く結んだ紺色の薄いリボンが、首元を締める。ポケットの煙草は、道路に落ちて、アスファルトに染み込んだ。

 私は歩いていた。段々と腰を丸めていた。肩に力を入れて、どんどん歩道の端に寄った。腕が壁を擦るくらい端を、私は歩いていた。すれ違う人が私の顔を見ないように。誰も私の存在に気付かないように。

 どうして帰ってきたのだろう。駅で切符を買った時から考えていた。二度と帰らないと決めた、二度と帰れないと逃げた場所に、どうしても一度帰ってきたのだろう。

 この坂を登れば、家がある。母が気味悪く笑い、妹が泣き、父がほぼ帰らなかった家が。坂の前で立ち止まってしまった。小さい時、自転車で駆け下りた坂の前で、足を止めてしまった。どうしてだろう。

 風が吹いても、潮の匂いはしないこの街が、心底嫌いだった。道の脇に適当に置かれたような煙草の自動販売機。セブンスターは売切れになっている。この坂を登ったら、家がある。一歩を踏み出した。頭の中に、『けじめ』という言葉が浮かんで、煙のように消えた。

 見覚えのある門の前で立ち止まる。どうしたらいいのか分からず戸惑う。インターホンを押すべきなんだろうか。インターホンを押して、母が出たら、私は一体なんて言うのだろう。それとも昔のように、玄関を開けてただいまとでも叫べばいいのだろうか。それともこのまま家の前で立ち尽くして、誰か家族が見つけてくれるのを待てばいいのだろうか。唇を噛んだ。私は一体、『家族』に何を求めているんだろうか。

 ふと目を上げた。私と妹の部屋だった二階の窓が見えた。窓には、カーテンがなかった。代わりにあったのは、『売家』の看板だった。

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 坂の下の自動販売機で、メビウスを買ったのは何故だろう。人通りの少ない道の真ん中で、私は煙草に火をつけた。火が、紺色のリボンを焦がして溶かしていった。落ちた灰が、長くて邪魔なスカートを燃やした。

 彼女たちは、もうとっくに解いていたのだ。裏切り者になった私を、家族という名の枷から。ここに来た理由がくっきりと浮かび上がった時、私はまた泣いた。もうスカートなんて履いていないはずなのに、足がもつれた。頭を掻きむしって、煙草を吸った。私は、完全に一人になった。

 煙草を初めて道路に捨てた。履いていた靴で踏みにじって火を消した。そうしたら、なぜか笑えた。人気のない道路で、私は今度は声を上げて笑った。

 ようやく私は、自由になったのだ。

 駅に戻っても、家に戻る気になれず、ふらりと本屋に入った。最後に本を買ったのは、確か高校受験の赤本だったはずだ。無意識に私は、参考書の棚の前に立った。あの時買った赤本は、気が遠くなるほど分厚く見えたのに、それは簡単に片手で持ち上げることが出来た。

「大人になったんやなあ」

 知らず知らずのうちに、そう呟いていた。ぱらぱらと捲ってみたが、何一つわからなかった。あまりに理解不能な文字列で、それもまた笑えた。

 また歩きだそうとした時、私の視界の端に、大学用の赤本が見えた。それから目が離せなくなってしまった。ばらばらと、頭の中で本が開くような感覚を覚えた。小学生の時に見たドラマ。綺麗な女優さんが着けたバッジ。パンツスーツ。口から発せられるのは、真ん中に立った人を信頼する言葉。まだ素直で隠すことを知らなかった私は、母親に言った。

「私、弁護士なる!」

 母は笑った。

「あんたは出来る子やもんなあ。絶対なれるわ」

 すごい勢いで、風が吹いた気がした。はっと目を開けば、そこには難しい顔をした本達が無造作に並んでいる。今の今まで忘れていたことを、どうして思い出したのだろう。背表紙を指でなぞってみた。つるりとした表紙に指が滑る。弁護士になると宣言した娘が、カンニング常習犯でみんなを騙していたと知った時、母は一体どう思ったのだろう。

『ほんま、弱虫やなあ』

 ふとそんな声が聞こえる。嘲笑うような、それでいて悲しそうな、そんな声。

『逃げてばっかりはどっちやねん』

「お前はほんまにうるさいなあ」

 居てなくなっても。そう続けようとして、やめた。これではまるで、私が負け犬だ。

 私は思わず、分厚くて重い赤本を手に取っていた。

「逃げてばっかりって言われんの、腹立つわ」

 見とけよ、馬鹿。新しい一歩を、先に踏み出した背中に向かって怒鳴る。私は、あの頃とは違う。大人になったのだ。

『法学部』と書かれた赤本を選んで、レジに持っていった。怪訝そうな顔をした店員が、バーコードを翳した。ぴっ。間抜けな音が、スイッチのように鳴った。レジ横に、消しゴムが売っていた。あの日、ケースを外して紙を仕込んだ、同じメーカーの消しゴムだった。迷わずそれもレジに置いた。叩きつけるような音が鳴った。

「これもお願いします」

 さらに眉間に皺が寄ったバイトらしき店員は、それもレジに通して袋に入れた。ありがとうございました、またお越しくださいませ。ロボットのように言う店員に背を向ける。

 本屋の前で消しゴムを開けた。カバーを外して、ゴミ箱に捨てた。笑いが止まらなかった。私は一人になった。誰も私を見ていない。誰も気にも留めないのだ。首に巻きついていた何かが解けて、風にさらわれて人混みに消えていった。片手に感じる重みが、何故か心地よく感じた。

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