短編小説:空が見えたら、それでいい

うわ~、三年前の小説だ。青いな~。これも「小説家になろう」のサイトから移動してきました。

潰れた煙草の空き箱と、折れたピック二つ。ところどころささくれた六畳半。馬鹿でかいアンプと五万のエレキギターは、この部屋にも、俺にも似合わない。

上京して五年。腐る、とはこのことだ。俺の人生設計では、もう既に東京ドームを満員にしているはずだった。一緒にステージにいるはずだったバンドメンバーは徐々に減り、最終的に俺は一人になった。

「お前の声、古臭いねん。今の流行りのバンド見てみぃや。そんな声の出し方してる奴もうおらんねん」

始めに抜けたドラムのユウキは、そう言って京都の実家へ帰っていった。見送りには行かなかった。

月に一度銀行口座に振り込まれる五万円。大阪にいる親からの生活費。週に一度かかってくるやかましい電話。口喧嘩をしては叩き切る。画面が真っ黒になったスマホをぶん投げたら、染みの出来た柱にぶつかって端が割れた。バイトの電話を取ろうとしたら液晶が反応しなかった。コンビニのスタッフルームで怒鳴り散らすその声は、ロボットのようだった。温かみがない、なんてのは多分また俺の『古臭い』考えなんだろう。銀行口座に振り込まれた五万円は、四万円になった。

家に帰ってつけた深夜ラジオでかかる音楽。この曲はこういうメッセージが伝わってきて心に響きます、何度も泣いてしまいました、というお手本のようなメール。次の曲がかかる前の曲フリで、このメッセージ性の無さが面白い、と話すDJ。

「お前英語喋れるやんけ。もっとお洒落な曲書けるやろ。どんだけ昔に囚われんねん」

ベースのハルは、俺のノートを破って言った。分かっていた。ハルもユウキも焦っていた。スタートラインを一緒に蹴ったはずの人達が、すでにゴールテープを切っているのを何度も見てきたからだろう。テレビで顔見知りのバンドがギターをかき鳴らすたび、俺達はどんどん沼の奥深くへと潜っていってしまったのだ。

ハルとユウキがいなくなってから、俺は路上で歌うようになった。路上で歌うために買った安いアコギ。駅前でギターケースを広げて、噴水をバックに歌った。大きな道を挟んだ向こう側に、同じように声を枯らしている十代くらいの兄ちゃんがいた。声を聴いてみようとわざと前を通って帰った。お前も俺と同じように頑張れよ、と思った。

ささくれた六畳半に帰って、汚い字のノートを広げた。昨日書きかけた拙い歌詞をまた付け足そうとしていた。ごうんごうんと大きな音が鳴っていて、アパートが揺れた。耳障りなその音で、思いついていたはずの歌詞が全部吹っ飛んだ。

「……なんやねん!」

閉めっぱなしのカーテンを破る勢いで開ける。隣の空き地で工事が始まっていた。カーテンを避けた窓からは、カビの湿った臭いと、冷たい重機の行き交う空き地が広がっていた。いたたまれなくなって、もう一度カーテンを閉めた。俺は空き地だ、と不意に思った。

何をしてるんだろう。『まともな仕事』ってなんだろう。俺はどうしてここにいるんだろう。それを考えたら負けだった。浮かんだ質問を次々に蹴飛ばして、煙草に火をつけた。

心のどこかで、自分は誰かより上だと信じていたのだろう。途中で投げ出さない自分を、美談にしたかったのだろう。コンビニのバイトを終えて帰宅する汚いアパート。午後三時。カーテンの隙間からスポットライトのように光がさして、煙草の灰を照らしていた。スマホが振動して、画面に『母』と表示された。舌打ちをして通話ボタンを押す。

「なんや」

『もしもし、て言いなさいよ。ガラ悪いわぁ』

「用事はなんや」

『急かさんでもええやないの。ハル君大阪帰ってきたんかいな』

「知らん」

『知らんはずないやろあんた。幼稚園の頃からずーっと一緒の子やのに』

「知らんもんは知らんねん」

バイト先で買ってきた弁当の蓋を開ける。蓋についた水滴が膝に落ちた。冷たい。

『ハル君大阪で就職する言うとったで。あんたも一回帰ってきたらええのに』

「もうええて。ほっといてくれや」

パキンと割り箸を割ったら、右が大きく欠けてしまった。棘を指で摘んで引っ張る。

『ほんでな、こないだうちに手紙入っとったで。テラシマユウキ、って書いてあったけど』

素で舌打ちが出た。

「あいつなんで実家に手紙送んねん、アホちゃうか……」

『あんたの友達かいな』

「大学の同級生や」

『ほなこれあんたんとこ送るわ』

「もういらん。処分しといて」

『なんでやの』

「なんででもや」

すっかり冷めてしまったハンバーグに箸を突き刺した。

『私が読もか?』

「なんでオカンが読むねん。ええからもう捨てといてくれや」

『えらいちゃんとした手紙やで。今どき珍しいやんか。真剣な話ちゃうの』

「真剣な話でもなんでもええ。俺もうそいつと関わりないねん」

そうか、とどこか不服気な母親の声を遮るように通話を切った。ハンバーグを口に投げ込む。

「冷めてもうたやんけ……」

不味い弁当を口に押し込んだ。その日、歌詞は何も浮かばなかった。


「歌えや、あんた」

懐かしいその声で目が覚めた。やけに爽やかな鳥の囀り。その声が夢だと気づくのに少し時間がかかった。それほどその声は鮮明で、現実味があった。ごうんごうん。隣の敷地の工事はどんどん進んでいるようだった。

「……久しぶりやな」

誰にも聞こえないことを分かっていながら、そう呟いた。顔を洗って、服を着替えて、トースターに食パンを投げ込んで、少し待つ。焼き上がるそれまでの数分さえ遅く感じた。その間、目の端に嫌でも映る開かずの押入れ。引っ越してきてから開けていない押入れ。ここを開ける時は、何か俺が変わった時。そう決めてもう三年。開ける機会は訪れないまま、ただだらだらと、時間だけが俺を引きずって流れていく。何も変わらない、閉じ込めた時と同じ時間が流れていく。たった三年、されど三年。季節が十二回も変わる間に、俺は疲労が取れにくくなっただけだった。

チン。時間切れを告げるように、トースターが音を立てた。何の時間切れだろう。今までは何の時間内だったのだろう。

午後九時。駅前はサラリーマンとカップルが行き交っている。寒さが少しずつ増してきて、アコギの音も震えがちになる。向かいの道で歌う兄ちゃんも、今日はいつもより厚着だ。午後十時。今日はもう引き上げよう、とギターをケースに直す。ふと、向かいの兄ちゃんに誰かが近付くのが見えた。スーツ姿の男性。何か紙のようなものを渡して、話している。遠目から見ても分かるくらいに、兄ちゃんの顔がパッと輝いた。ペコペコと何度もお辞儀をしている。俺はケースにギターを直した体勢のまま、しばらく動けなかった。あっけなかった。それが何を意味するのかは、考えたくなくても分かった。また一人、仲間が消えたのだ。

駅の前の焼き鳥の匂いを嗅ぎながら、家へと向かう。楽しそうな酔っ払いの声が、夜に溶けていく。ズボンのポケットに入れたスマホが震えた。ケースを脇に置いて、液晶を見る。メールの差出人は『母』。

「なんやねんこんな時に……」

開くと、添付画像が一枚。

『やっぱり写真撮って送っとくわ。大事なことっぽいし。言うとくけど、読んでへんで』

やけに容量の重いその画像は、ユウキからの手紙だった。そういえばあいつは俺の家の住所を知らなかったなあ、とぼんやり考えた。綺麗とは言えないが、丁寧な字が並んだ見づらい便箋。画質も悪い。

『マサへ。ごめん、俺実家の住所しか知らんかってん。メールも電話も着拒やし、どうしたらいいか分からんようになって。きっとマサのお母さんが気付いて、マサに知らせてくれると信じてる。聞きたくないって言われるかもしらんけど、とりあえず近況報告。知り合いに頼まれて、京都でドラムスクール開くことになった。言ったら悪いかもしれんけど、俺は京都に帰ってきてよかったと思ってる。お前もなんかあったらとりあえず一回帰ってみろよ。また連絡くれ、待ってる』

スマホの無機質な光が、俺の顔を照らす。電源を切って、ズボンのポケットに入れる。目を上げたら、電球が切れかけて不規則に点滅する街灯がゴミ置き場を照らしていた。

やっとケースを担いで、ボロアパートに戻った。投げ出すようにケースを足元に置く。

「なんやねん」

ぽろりとそう呟く。なんやねん。俺の人生なんやねん。俺ここで何してんねん。カッコつけて飛び出して、友達だったはずの人たちを踏み台にして、なんやねん。

思い切りギターケースを蹴飛ばしたら、思った以上に吹っ飛んだ。ヤバい、と手を伸ばしたが、間に合うはずもなかった。伸ばした手をすり抜けて、ギターケースが吹っ飛んだ。がこん、と鈍い音がして、開かずの押入れに突っ込んだ。襖が変な音をして破れて、コマ送りの映像のようにゆっくり倒れた。ふわっと埃が舞って、真っ黒い空間が口を開けていた。自分が何か変わるまで開かないはずだったこの重い襖は、こんなにも簡単に、軽く開いた。積み上がったダンボールがこちらを見ている。じんわりと目頭が熱くなった。この感情を上手く言い表す言葉が見つからなかった。一番近いのは、『情けない』という言葉だろうか。いい年をしたおっさんが涙を流した。慰めてくれる人もいないのに、泣いていた。

なだれ込むようにして、押入れの中に体ごと入り込む。ダンボールを開ける。大量に入った写真と、小さな箱二つ。その箱を開けたら、懐かしい細い輪っかが一つ。

「あんた、ほんますぐに泣くねんな」

懐かしい声が一つ。

「イカつい顔してすぐ泣くん、ほんまかっこ悪いわぁ」

うるさい、と思った。そうやって、いつも俺を馬鹿にしていた。左手の薬指の指輪が、抜けそうなほど細くなるまで。

「私はあんたの歌に惚れこんだんやで。あんたの書く歌詞にも」

知っとるわ、と言い返そうにも、言い返す人がいない。言い返したい言葉が喉の奥で絡まって、綿飴が溶けるみたいに消えていく。

「だから、私がおらんようになっても、ちゃんと歌っといてくれな困るで」

真っ白いベッドの上で、俺の彼女はそう言って笑った。なんでこんな時にこんなことを思い出したんだろう。ギターケースが突っ込んだ押入れを見ていたら、もう全てがどうでもよくなった。ダンボールを全部放り出す。ダンボールを逆さまにして、中身を全部ぶちまける六畳半。足の踏み場の無くなった六畳半。遊園地で買ったお揃いのキーホルダー。上京する時にくれたヘッドホン。女性物の服が五着。捨てられなかった思い出。ぼろぼろの六畳半は、世界で一番平和な場所になった。散らばった写真の上に寝転がった。俺はここで何をしてるんだろう。何をしないといけないんだろう。天井の染みを眺めていたら、また懐かしい声。

「なんや、東京で住んでる言うからお洒落してきたのに、こんなボロアパートかいな」

うるさい、と思った。そんな金無いねん。お前に全部使ってしもてん。

「せやけど一個ええとこ言うとしたらアレやな。ここ、都会やのに、よぉ星見えるわ」

ハッとして起き上がった。閉めっぱなしのカーテン。写真の海をかき分けて窓に近寄った。ばっとカーテンを開ける。

二十階建ての新しいマンションが、空を突き破って建っていた。見えるのは、コンクリートの冷たい壁と、小さな窓だけだった。ごうんごうんというあの工事の音が耳を通り過ぎる。鍵を開け、窓を開けた。乾いた空気が髪の毛をはらっていく。見上げても、星は見えなかった。夜空がたった五センチほどになっていた。窓を開けたまま、冬の匂いがする風に吹かれながら、俺は呆然と立っていた。ごめんな、と思った。ごめんな。やっぱり俺、お前おらんとあかんみたいやわ。なんかもう、何もかもが上手くいかへんわ。また風が吹く。唇が震える。でもな。俺は手を伸ばした。ペンとノート。書きかけの腐った歌詞を破り捨てて、新しいページにペンを押し付ける。ここで諦めたら、もっとあかんようになる。窓から吹く風が、写真の海に波を起こしていく。俺はノートに新しい題名を書く。

『空が見えたら、それでいい』


歌い終わる。午後十時。あれから特に何も変わったことは無い。コンビニでバイトして、歌って、ボロアパートに帰る。ただそれだけの日々。ギターを片付けようとした時、駅から歩いてくるおじさんが見えた。ぱたぱたと俺の方に来て、俺に缶コーヒーを差し出した。

「え」

「飲めるか?」

戸惑いながらも、はい、と答えて受け取る。よれたスーツのおじさんは、照れ臭そうに笑った。

「突然ごめんな」

おじさんはコートのポケットからもう一本コーヒーを取り出して、プルタブを上げた。

「俺も昔、歌で飯食いたいと思ったことがあってさ。けど諦めちゃって。毎日歌ってるお兄さん見たら、そん時のこと思い出したよ」

コーヒーを両手で包み込んで、俺はおじさんを見た。

「そうだったんですか」

「全然芽が出なかったからさぁ。辞めちまったんだよ。お兄さんも、ほら、言っちゃ悪いけど、ずっとここにいるだろ?」

それが何を意味しているのか、俺には分かった。

「いえ、本当のことですし。でも、嬉しいです。こうやって話しかけてくれるの」

「よかったよ。なんか生気のない顔してギター弾いてることもあったから、お節介かもしれないけど心配してたんだ。俺、お兄さんの歌声好きだよ」

心臓辺りがぎゅっと絞られるような、絞られて熱い何かが滴り落ちるような、そんな感覚になった。

「……ありがとうございます」

「そんな泣きそうな顔すんなよ。意外と涙もろいタイプなの?」

そうなんすよ、と答えて、ずっと鼻をすする。片付けかけたギターをもう一度取り出す。

「お、もう一曲やってくれるの?」

「聴いてくれますか」

もちろん、とおじさんは答えた。

「今までやったことない曲なんです。大事に大事に取ってあったんですけど、よければ聴いて欲しいです」

俺は、おじさんに貰った缶コーヒーをジーンズの後ろのポケットに突っ込む。古ぼけて汚れた、破れたところもあるノートを広げた。今夜は、星がよく見える。

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