狼に翼を#終演:狼に翼を

 千秋楽公演は、満員だった。悪魔と評された相川幸を一目見ようと押しかけた客は、相川幸演じる姫の一挙一動を息を呑んで見守っていた。演者の誰もが、彼女の変化を感じ、恐怖さえ覚えていた。それは、僕も同じだった。

 勢いよく幕が下りる。ギロチンが下りたことを暗に示すその演出。僕は裏でそれを見ていた。滴り落ちる血の音。それは、僕の首が飛んだことも表していた。

 幕が下りてしばらくは、全員が息をすることを忘れ、静まり返っていた。相川幸の演技に殴られた人々は、それを受け止めるのに十分な時間の後、一斉に拍手を送った。この舞台が始まった頃には考えられなかったような、盛大な拍手だった。

 一度目のカーテンコールで、僕は出て行く。演者達も次々に後ろに続く。眩しい舞台の上から、観客席を見渡す。形だけの、礼をする。誰も僕を見ていない。隣で頭を下げる相川幸だけが、スポットライトを堂々と浴びている。

 鳴り止まない拍手の中、一度裏に戻る。千秋楽は、基本三回ほどのカーテンコールに応えなければならない。裏に戻ると、ヘアメイク担当の女性が、僕の髪型をさっと直した。拍手が鳴り止まないので、二度目のカーテンコールに応える。

 さて。これからどうしようか。僕は舞台の上で考える。しばらく金はあるものの、俳優として国民に顔を知られている以上、普通の生活に戻ることはできないだろう。

 ゆっくりと、深々と頭を下げる。どこかに会社員として就職するなど以ての外だ。そうとなれば、やはり女の所に転がり込むしかないのか。そんな惨めな思いはごめんだ。だが、この世界で惨めな思いをするのはもっとごめんである。

 上の空のまま、舞台を後にする。ヘアメイク担当の女性が、髪の毛を直す。揺れる赤い幕の向こう、拍手はまだ鳴り止まない。

 これ以上、僕が出来ることなどない。全て手に入れたはずだった。人生はコース料理のようだったはずだ。デザートに辿り着く前に、僕は店を出なければならなくなった。

 三度目のカーテンコール。三度目になると、演者は観客に一言コメントを述べることになっている。僕はまだふわふわとした頭のまま、マイクを受け取って幕の外へ出る。観客が全員立っている。スタンディング・オベーション。観客の壁が、僕に迫る。一体、何を迫るというのだろう。僕は今ここで、何と言葉を発するのだろう。

 何も思いつかないままマイク持ち上げた時、ふと、観客がざわめいているのが聞こえた。大勢の呟きは次第に大きくなる。慌てて頭を上げる。隣にいるはずの、相川幸がいない。一列に並んだ演者達も、全員きょろきょろと相川幸を探している。

 びりびりと、足に電気が走る。僕は、思わず振り向く。どうして。どうして、ここで。ざわめきの中、相川幸の笑い声が脳内に響く。

『私を失ったことを、後悔すればいいのよ』

 僕はマイクを床に置き、地面を蹴った。共演者が僕を呼び止めている。衣装担当の男性にぶつかり、持っていたタオルが全て落ちる。

 僕だけが、知っている。彼女が何をしようとしているのかを。

 楽屋の扉を蹴り飛ばすようにして開けた。相川幸の鞄がない。微かに、煙草の煙の香りがする。床に、姫の衣装が脱ぎ捨てられている。いつもはハンガーにかけられ、皺のないよう伸ばされているはずの衣装が、床に落ちている。まるで、姫の体だけが消えて無くなったかのように。

 音響のスタッフが僕を呼び戻そうと走ってきているのが見える。僕は、彼と反対方向に向かって走り出す。まだ、まだ間に合うはずだ。

 廊下を蹴り、ホールの裏口から飛び出す。年配の警備員がぎょっとした顔でこちらを見た。

「こっから女が出て行ったろ!?」

 僕は警備員の肩を掴む。みすぼらしい衣装で、舞台メイクをしたままの僕に戸惑いながらも、警備員はがくがくと首を縦に振る。

「どっちへ行った!」

 警備員は恐る恐るというように、僕の背後を示した。僕はそちらに向かって走り出す。

 おかしい。おかしいだろう。お前が、最後の最後までお前が、この物語の主人公になるなんて。おかしいだろう。僕は、この物語の脇役にしかなれないなんて。

 大通りに飛び出すと、通行人が悲鳴を上げた。構わず押しのけ、走る。どこかに、どこかにいるはずだ。まだそんなに遠くには、行っていないはずなのだ。

 交差点の信号が赤になる。車が次々に通り過ぎる。相川幸は見えない。人が多すぎて、姿を探し出せない。異様な雰囲気を醸し出す僕の周りに、人はいない。全員僕から少し離れ、スマートフォンをこちらに向けている。好奇の目。滑稽なピエロを笑おうとする目。不思議と、その目から逃げる気持ちは湧き上がってはこなかった。

 すぐ横の歩道橋を駆け上がった。上から見れば、見えるかもしれない。相川幸に、追いつけるかもしれない。階段を登りきり、下を見下ろす。どんどんと通り過ぎる車。仕事を終えて帰宅する人々。はしゃぐ子供。疲れた老人。相川幸はいない。溶けて、無くなってしまった。人に溶けた。彼女はもう、『姫ではない』。

「翼をくれ!」

 歩道橋の上、僕は叫んでいた。どうしようもないと知りながら、遠吠えのように叫ぶ。

「空から見れば、空から見れば見えるはずだ!」

 無数のスマートフォンがこちらを見ている。僕は崩れ落ちる。ぽたりと落ちた汗が黒い。

 狼に、翼は生えない。僕は、もう二度と戻れない。翼のない狼は決して、逃げることが出来ない。

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