狼に翼を#5:信じてたのに
子供の時、レッスン中に泣き出す子は多かった。厳しい指導と終わらない演技、緊張感漂う空気に飲まれ、辞めていった子もたくさんいた。僕は分からなかった。ただ台本の通りにやればいいだけなのに、何故泣くんだろう。出す言葉も、その時の気持ちも、全て台本の中にある。自分が考えねばいけないことなんて、一つも無いのに。レッスンの教室を後にする子は、僕を見ていた。子供ながらに、その目が何を意味するか分かっていた。羨望、怒り、そして憎しみだった。
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「……キャンセルが出てます。多数」
鶴田が言う。運転席で揺れる後頭部を見ながら、僕は溜息をついた。
裏口にも案の定記者は待ち構えていた。僕はその間を縫うようにして、車に乗り込んだ。
「分かってるんですよね」
鶴田の口調はナイフのようだった。うん、と生暖かい返事をする。マナーモードにしたスマホが、さっきからポケットの中で鳴り続けている。SNSのフォロワーが増える通知、スタッフからのメール、事務所の社長からの電話。多分そんなとこだろう。もしかすると、今回の舞台の制作スタッフや、監督からの連絡もあるかもしれない。
「どうしてなんですか」
鶴田が言う。
「……何が?」
僕はそう聞き返す。
「何が、じゃないです」
もういいです。怒りと溜息が混ざったその台詞は、今まで聞いたどんな台詞よりくだらなかった。一体僕に何を求めているというんだろう。結局僕は人間であって、神様じゃない。ましてや、天使なんかじゃない。そんなのは分かりきっていたはずなのに、何故こんなにも苛立つのだろう。
見覚えのある景色ばかりだ。東京は、全部僕の庭のようなものだ。大体はロケで行ったし、プライベートでデートだって行った。大きな看板には大体僕の顔があるし、ショーウィンドウも僕が紹介した商品ばかりだ。どれもこれも、知っている物ばかりだ。
「……裏切りです」
ぽつりと鶴田が言った。信号が、青から赤に変わる。砂糖に群がる蟻のように、人間が横断歩道に殺到する。
「……そうだね」
僕は言う。化けの皮が剥がれた、という週刊誌の一文は、あながち間違いじゃない。
「ちゃんと謝罪文を出すよ。信じてくれてるファンもいる」
僕はそう呟いて、窓の外に目をやった。最後の最後まで、悪あがきだと言われても、僕は僕でいたかった。ファン思いの、ピュアで綺麗で儚い天使を演じきりたかった。それが『橘遥斗』なのだと、最後まで叫んでいたかった。
「そういう問題じゃないでしょう」
鶴田の声に、僕は目を向けた。ルームミラー越しに、鶴田と目が合う。
「貴方は、一体何なんですか」
その目線に耐えられなかった。足を搔く振りをして、僕は俯いた。
「……信じてたのに」
舌打ち混じりに聴こえた声は、ほんの少しだけ震えていた。
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たとえ僕に何が起ころうとも、時間は進むし本番はやってくる。騒動の二日後の舞台は、散々だった。客席は風の音が聞こえそうな程に空いていて、途中で席を立つ人もいた。
僕のパフォーマンスは、いつも通りだった。台詞を一つも間違えず、ただひたすらに演じ切った。幕が下りても、もちろんカーテンコールなどなかった。
「お疲れ様です」
メイクを落とした家来役の高木悠仁は、苛立ったようにそう言い、僕の座る椅子に少し足を引っ掛けて行った。
「ごめんね、本当に」
高木悠仁の背中にそう言ったが、その耳からコードが垂れているのに気付くのに少し時間がかかった。
馬鹿らしい。メイクを落としながら、僕は椅子に背中を預ける。馬鹿らしい。馬鹿馬鹿しくて、反吐が出る。僕と目が合ったような気がしただけで喜んでいたアカウントは、投稿を全て消していた。僕のアカウントは鍵をかけるタイミングを逃し、フォロワーが既に八十万人を突破しようとしていた。週刊誌の表紙には、大きな文字で僕の名前が踊り、駅の僕のポスターは大きく破られる騒動が起き、そのポスターの企業とは契約が切られる事になった。僕の所属する事務所には、毎日のように脅迫電話や手紙が届き、対応に追われた社長に僕は五時間も説教を喰らった。生放送の番組は出演見合わせ、決まっていた次期のドラマも白紙になった。
馬鹿らしい。後ろで衣装スタッフが動く気配がするので、舌打ちを我慢する。煙草の煙を求めた足が、貧乏揺すりを始める。
たかが一人の人間の裏が見えただけで、騒ぎすぎなのだ。人間なんだから、煙草も吸うし彼女も作る。SNSだってやるし、嘘もつく。それのどこがいけないというのだろう。それを今まで綺麗に白く隠していたことに、誰も触れないのは何故だろう。
「いい気味ね」
ガタン、と品のない音を立てて、隣のパイプ椅子が軋む。
「……幸ちゃん」
相川幸が口の端だけ上げて笑う。
「いいじゃない、あんたが今までどれほど愛されてたか知る機会になったわね。あの席のガラガラなの、見た? 私演技中も笑いこらえるの必死だったわ」
うるさい。奥歯を噛み締める。
「愛されて、天使とか言われて、みんなに守られて、世界で一番幸せだと思い込んでた橘遥斗。今どんな気持ち?」
うるさい。危うく出そうになった言葉を、唾と一緒に飲み込む。
「私ね、今生涯で一番嬉しいかもしんない」
相川幸は、肩をすくめて笑った。姫の顔が頭を掠める。少しづつ間違えなくなった台詞。本番では、まるで本当の姫のように気高く見えた。
「あんたの羊飼い役、滑稽だったわ。叫ぶところなんか、必死であればあるほど、今の自分を正当化してるみたいで」
「……言いたい放題だね」
僕は微かに笑顔を作る。疲弊したような顔を作る。でもそれは全部作り物でしかない。いつかは剥がれて、崩れて、露わになる。痛いほどに実感している今でも、自分を作り出すことを辞めない。辞めることができない。そうやって生きてきたからだ。天使と呼ばれた時から、ずっと。それは確かに、滑稽かもしれない。
「私ね、あんたが不思議でしょうがない」
相川幸が言う。姫に相応しくない、煙草の匂いがする。
「地位もある、名声もある、金もあるし女もあるし、人脈も好感度もある。全部持ってるはずなのに、一体あんたは何が欲しいの?」
僕は目を上げる。相川幸の口が、歪んでいる。さっきまで楽しそうに笑っていたはずの相川幸の顔が、歪んでいる。
「あんたは何が不満なの?」
煙草の匂い。それに混じって、棘のついた蔦が、相川幸の口から吐き出される。
「あんたは一体、誰のために嘘をついてるの?」
蔦が、蛇のように動く。僕の首を絡め取り、きつく締める。棘が皮膚を突き破って、空気の通り道に穴を開ける。ひゅう、というような音が、自分の喉で鳴っている。うるさい。黙れ。そんな感情と共に、相川幸の言葉が目の前でうねる。僕は、なんのために嘘をついているのだろう。
「信じてたのに」
相川幸の口から、静かに零れ落ちた。うねる言葉が、鶴田の顔に変化した。鶴田。下の名前は何だったか。まるでみんなロボットのように同じことを言う。人なんてみんな裏切るのに。裏切るのが人間なのに。どうしてみんな、僕を信じてたのだろう。
「信じてたのに」
ふと、背後から声がした。高木悠仁だ、と振り向くが、彼はいない。先程帰ったはずだ。
「信じてたのに」
今度は低い、迫力のある声がする。坂口章隆だ。
「信じてたのに」
どこかで声がする。首に巻きついた蔦は、もう骨まで侵入している。もう、どこの誰の声かも分からない。うるさい。一体何を信じてたんだろう。僕の何を信じてたんだろう。何を根拠に、信じてたんだろう。
がたんと音がして、我に返った。隣のパイプ椅子が微かに揺れていた。そこにいたはずの相川幸はもういない。
椅子の上に、白い紙の束が置かれていた。酸欠で震える手で、それを拾い上げる。それは、相川幸の台本だった。
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