短編小説:夢は泡沫、消えるまで

落選作。「美容室」をテーマにした短編小説賞に応募していたやつです。

「あのー……すみません……」
 控えめに肩を叩いてみるけど、起きない。さっぱり起きない。
「何、また寝たの?」
 僕より一年先輩の翔さんが、小さい声で尋ねてくる。僕は無言で頷いた。
 新人の最初の仕事は、シャンプーだ。毎日毎日、シャンプー台の前で、ひたすら髪をシャンプーし続ける。それが新人の仕事。……とは言っても、だ。
「もうこれで今日五人目なんだよなぁ……」
 僕がシャンプーすると、何故かお客様は爆睡してしまう。痒いとこ無いですか、なんて尋ねるけど、返事は無い。少し強めのヘッドスパをしても、起きない。椅子を起こしても、起きない。
「まあいいんじゃねえの? 眠っちゃうってことは、気持ちいいってことだろうし。悪いことではないだろ」
 翔さんはそう言うけど、だからと言って開き直る訳にはいかない。だって、これだとシャンプー台がいくつあっても追い付かない。ここはこの辺じゃちょっと有名なサロンだし、お客様の予約も沢山入っている。カラー材を流さなきゃいけない人もいるし、次々席を回していかないといけない。
「何喋ってるの」
 突然背後から、冷たい声がする。びくっと僕と翔さんは肩を震わせ、恐る恐る振り向いた。氷のような表情が僕らを突き刺す。
「仕事中です。私語は謹んで」
「は、はい……」
 ハイトーンオレンジのロングヘアを翻して去っていったのは、この店のオーナーの愛菜さんだ。かつかつと鳴るヒールの音が怖い。愛菜さんは突き刺すような表情のまま椅子を引っ張り、くるりと開店してお客様の背後に回った。
「大変お待たせいたしました! 今日どんな感じにします?」
 ……お客様と目が合う頃には、百点満点の笑顔になっている。
「やっぱ愛菜さんすっげぇな。切り替えが完璧」
「そっすね……」
 僕は感心しきっている翔さんを横目に、眠ってしまったお客様の肩を揺することに専念した。

「おはようございます。昨日はかなり忙しかったですが、今日も昨日と同じくらい忙しいことが予想されます。気を引き締めて。まず本日の予約の確認から始めます。高垣、よろしく」
「はい。本日の予約ですが、十時より一名、いつも来ていただいている前田様ですね。カットとカラーのご予約で……」
 朝礼を聞きながら、僕はぼんやりシャンプー台を眺めていた。今日も僕は、あの場所に立ち続ける。ごくまれに、カラーやブローの手伝いに呼ばれることはあるけど、基本的に僕の居場所はあそこだ。昨日家で、机に固定したマネキンの髪に鋏を入れながら考えた。いつになったら、僕は『新人』じゃなくなるんだろう。いつ僕は、一人前と認めてもらえるんだろう。ちゃんとお客様の髪に鋏を入れることが出来るのはいつなんだろう。分からない。先が全く見えてこない。
「……以上です」
「ありがとう。最後に私から連絡事項があります。最近、店の状況が見えていない人が多すぎます。ここは一対一で、お客様と向き合う場所です。お客様を待たせたり、不快な思いをさせたりなんて、絶対にあってはならないことです」
 しんと、部屋中が静かになる。ぴしっと氷漬けにされたように動けないのは、愛菜さんががっつり僕の方を向いているからだ。確実に、僕に言ってる。でもそんなこと言われたって、僕はどうしようもない。分からない。どうすればいいのか。
「……では、本日もよろしくお願いします。以上でミーティングを終わります」
 愛菜さんは僕を見たまま、朝礼を締めくくった。皆が掃除のために動き始める中、僕だけがしばらく動けなかった。

「あ、今日シャンプー陸くんなんだ。久しぶり」
 午前十時。月に一度の頻度で来られる前田様はそう言った。
「お久しぶりです。いつも愛菜さんでしたっけ?」
「そうそう。でも今日は忙しいみたいね」
 ちらりと見ると、愛菜さんは忙しなく動き回っている。
「……すみません、今日僕で」
「なーんで謝んの! 私陸くんのシャンプー楽しみにしてんだからさ」
 前田様はそう言うと、シャンプー台に座る。
「楽しみ……ですか」
「そうだよ。なんでそんな微妙な顔してんの?」
 僕はひざ掛けを前田様にかけて、タオルを用意する。
「だって……僕のシャンプー、皆さん絶対寝ちゃいません?」
「あー、寝るね。気持ちいいもん。いいことじゃん。嫌なの?」
 まあ、と煮え切らない返事をしたら、前田様がくるっと振り向いた。
「ねえ、知ってる? 陸くんのシャンプー、みんな楽しみにしてんだよ。なんでだと思う?」
「いや……分かんないっす」
 前田様はいたずらっ子のように笑って言った。
「陸くんにシャンプーしてもらうとね。見たい夢が見れんの」
「夢……?」
「そう、夢」
 前田様はそう言うと、また前に向き直った。僕はゆっくり椅子を倒す。
「そうだなー、今日は何にしよっかな」
「何にしようって……夢なんて選べないでしょ」
「それがさあ、選べちゃうのよ。陸くんのシャンプーの時だけは」
 そんなわけ、と笑いながら言うと、前田様は真剣な顔つきになった。
「いや、これガチね。ちょっと今日は無茶な夢にしてみようかな。お菓子の家に行って、そしたら中から出てくるのが魔女じゃなくてイケメンのお兄さんで、そのお兄さんと仲良くお茶会して、バイバイ。どう?」
「どう、って言われましても……」
 僕は困惑しつつ、タオルを前田様の顔にかけた。呼吸できるように開けた隙間から見える唇が、ほんのり笑っている。
「んじゃ、行ってくるわ。イケメンとデート」
 そんな馬鹿な。僕は思いながら、シャワーの栓を開いた。

 案の定、前田様は起きない。僕は仕方なく椅子を起こして、肩を軽く揺らしながら名前を呼ぶ。愛菜さんの視線が痛い。
「……はっ! ああ、めっちゃいい目覚め」
 ぐっと伸びをした前田様は、僕を見てにやりと笑った。
「しっかり、イケメンとデートしてきたよ。イケメンがめちゃくちゃ上手い紅茶を淹れてくれてさ。壁のクッキーがもう美味いのなんの……」
「ほ、ほんとにその夢見たんですか?」
「見たよ。シャンプーの間の妄想じゃないよ。マジの夢」
 前田様は気持ちよさそうに欠伸をした。
「多分みんな気付き始めてるよ。最近、シャンプーだけのお客さん多い気がしない?」
 そういえば、と僕はここ数日のスケジュールを思い出した。最近やけにシャンプーだけのお客様が多いなぁと思っていたところだ。
「この辺でさ、口コミで広がってんのよ。陸くんのシャンプー」
「マジですか?」
「マジよ、マジ。全員見たい夢見れてるもんだから、どんどん広まってる」
 そんな馬鹿な、と思いながら前田様をお席に案内すると、向こうから愛菜さんがかつかつとヒールを鳴らしてやってきた。
「シャンプー希望のお客様。今いける?」
 え、と思わず僕は間抜けな声を出してしまった。聞こえていたであろう前田様が振り返り、ウインクした。愛菜さんが怪訝そうな顔をする。
「あ、いえ、あの、いけます!」
 僕はそう言うと、急いでお客様を案内するためにその場を離れた。

 シャンプーのみのお客様は、どんどん増え続けた。一日に何人も予約が入り、飛び入りのお客様はお断りするようにまでなった。どうやら誰かがSNSに僕のシャンプーのことを上げたらしい。気付けば店のシャンプー台は二台増えていた。
「ふう……」
 閉店作業をしながら、僕はため息をついた。一日中シャンプーしっぱなしの手は、ふやけてしまっている。
「お疲れ」
 ふと気づくと、翔さんが鞄を持って店から出ていくところだった。
「あ、翔さん、あの……!」
 僕は翔さんを呼び止めた。
「何?」
 翔さんが振り向く。すごくめんどくさそうな顔で。
「あ、あの……今度またカットのことでお聞きしたいことがあって……」
あぁ、と、翔さんは鼻で笑った。
「いいけど、ほんとに要る?」
「え、どういうことですか……」
「だってお前、もうシャンプーの人じゃん。要らないんじゃね? カットの技術なんて」
 ずん、と僕の心臓に何かが落ちてきた。
「そ、そんなことは」
「あるよ。そんなことある。あと、俺もうそろそろこの店辞めるから」
「な、なんでそんな急に……?」
 震える声で尋ねると、翔さんは軽く舌打ちをした。
「ここだと俺の仕事が無いからだよ。言わせんな」
 口から声の代わりに、空気の塊が出た。掠れた声が宙を舞って、翔さんはそそくさと店から出ていった。
 こわばった手で最後の後片付けを終えて休憩室に向かうと、愛菜さんがまだ残っていた。
「お疲れ」
「お、お疲れ様です……」
「聞いた? 翔が辞めるって」
 突然愛菜さんにそう話を振られ、僕はびくりと肩を震わせた。
「今、聞きました……」
「そう」
 愛菜さんはパソコンを睨みつけたままそう言った。なんとも言えない居心地の悪さを感じて、僕は急いで荷物をまとめる。
「ねえ」
 帰ろうと思ってリュックを背負った瞬間、愛菜さんに呼び止められた。振り向くと、今まで真剣にパソコンを見つめていた愛菜さんがこちらを見ている。
「は、はい」
「今時間ある?」
 思わず僕は時計を見る。別にこの後予定があるわけでもない。
「時間は、あります」
「シャンプーしてよ、私を」
 え、と妙に裏返った声が出た。
「あ、愛菜さんをですか? 今から?」
「そう、今から、私を。嫌ならいいけど」
「い、嫌じゃないですけど、なんで……」
 背負ったリュックをもう一度机の上に下ろしながら僕は問う。どうしてだろう。何か僕がまずいことをしでかしたんだろうか。
「聞いたよ。夢見せてくれるんでしょ」
「え」
「見たい夢見せてくれるんでしょ。あんたのシャンプー」
 至極真剣な顔で、愛菜さんは言った。困惑する僕をよそに、愛菜さんは立ち上がって僕を手招きする。言われるがまま、シャンプー台まで着いていく。
「いつもやってる感じでやって。別にこれで点数つけようとか、そういうんじゃないから。私の個人的な興味」
 すとんと、愛菜さんがシャンプー台に座った。僕はまだハテナで埋め尽くされた頭のまま、いつもの手順で椅子を倒した。

 シャンプーが終わっても、愛菜さんは起きない。仕方なく隣のシャンプー台に座って目覚めを待っていると、二十分ほどたってようやく愛菜さんが目を覚ました。
「あ、おはようございます」
「先帰っててよかったのに」
「いや、さすがにそういうわけには……」
 眠そうな目を擦りながら、愛菜さんは伸びをした。僕はどうしていいのか分からないまま、その愛菜さんを見ていた。
「……見れたよ、夢」
「え?」
「見たい夢、見れた。噂が本当だったって分かった」
 シャンプー目当ての客も増えるわけだ。納得したように愛菜さんはため息をついた。
「……あの、愛菜さんが見たかった夢って」
 沈黙に耐えられずにそう聞くと、愛菜さんは長い長い息を吐いた。
「……こんなんだけど、一応好きな人とかいんのよ、私にも。でも片想いだし、せめて夢の中だけでも話せないかなって思っただけ」
「……話せたんですか」
「話せた。楽しかった。でも何だろうね、見たい夢だったはずだけど、今はすごく」
 そこで一度言葉を切って、愛菜さんは目を上げた。何となく、続きを言うべきか言わないべきか迷ったような、そんな表情だった。
「すごく、虚しいな」
 静まり返った店内は、声がよく響く。
「夢だからさ、結局は。現実じゃないから。現実に戻った時、虚しいよ」
 時間取ってごめん、帰ろう。愛菜さんはそう言うと、濡れた髪のまま立ち上がった。
 僕は急いでドライヤーのコンセントを刺して、愛菜さんの腕を掴んだ。
「あ、あの! 風邪、ひいちゃうんで、せめて乾かしませんか。僕、乾かしますんで」
 愛菜さんは驚いた顔で何度か瞬きをした後、力が抜けたようにふっと笑った。
「……じゃあ、頼むよ」

 あの後、翔さんは別の店に移り、僕はシャンプーだけのお客様を断るようになった。それどころか、もう僕がシャンプーをすること自体を辞めてしまった。
「え、なんでもうやんないの? 人気だったのに」
 椅子に座った前田様はそう言った。僕は苦笑しながら前田様の首にタオルを巻く。
「やっぱり、夢みたいな『どうにもならないこと』ってそのままにした方がいいなって。その方が面白いじゃないですか」
「そうそう、人生と一緒」
 急に後ろから、僕の言葉の続きが付け加えられた。驚いて振り向くと、愛菜さんがいた。左手の薬指には、指輪が光っている。
「前田さん、今日のカットさ、彼がするから」
「え! 陸くんついにカットデビューなの?」
「そう、デビューが前田様でよかったです」
 ほんと分かんないもんだよな、将来のことなんて。僕は鋏を取り出した。

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