狼に翼を#2:小さな積み重ね
「体調整えておいてくださいって昨日メールしたでしょう」
ため息混じりに鶴田が言う。
「整えるつもりだったんだけどね」
ごめんね、と肩をすくめて手を合わせた。
「目の下クマすごいですし、全体的に顔に疲労感がありますよ。何時まで起きてたんですか」
ため息混じりのその声は聞こえない振りをして、また僕は台本を開いた。昨日は結局、テレビをつけたり消したりして三時間ほどぼんやりしてしまった。気づくと空の缶が五本に増えていて、煙草の空き箱が机の下に落ちていた。笑えるよね、と鶴田に言うと、笑えません、と真顔で返された。たまの冗談は、人を和ませる。
台本は打ち合わせの直前に渡してくれ、といつも僕は頼んでいた。読み込んで予習するより、直前にぱらりと読んで新鮮な気持ちで台詞と接するのが好きだった。
長台詞か、と僕は目頭を押さえる。こんな熱いキャラクターをするのは久しぶりだ。昨日撮り終わったドラマでは、クールな生徒会長役だったし、その前の映画は病に倒れる彼氏役。あまり表情を出さない役柄ばかりやってきたため、表情筋を呼び戻さなければならない。むにむにと頬を手で押しながら、鏡の中の自分を見返す。長台詞を間違えたことは、まだない。短時間で台詞のニュアンスだけ叩き込めば、あとはその時の気持ちと流れに任せて熱量を上げればいい。そうしておけば、大体監督のOKはいただける。ドラマや映画を見る人は、元の台本を知らない。つまり、台詞を間違えていようが、前後の繋がりさえ自然であれば違和感を感じずに見てもらえるのだ。たとえ台詞を間違えても、そんなことが気にならないほどのいい演技をすれば、台詞の一つや二つは重要ではない。
「橘くん、あと二十分で打ち合わせ始まります。用意できてますか」
うん、大丈夫、ありがとうね。微笑んで言えば、鶴田は引っ込む。さりげない定期的な感謝は、ほんの少しの相手の苛立ちも消し去る効果がある。そんな小さな積み重ねを意識するだけで、周りの人が僕を持ち上げてくれる。薔薇の花から生まれた天使は、演技だけでなく、気配りも出来る。それが広まれば、また仕事が増える。人が思っている以上に、俳優の仕事というのは簡単なのである。
「……羊が一匹、二匹」
ソファの上で呟いてみる。台本を、皺がつかないように丁寧にファイルに入れる。元彼女に貰った、何十万のバッグ。一体誰がプレゼントしてくれたものだっただろう。そんなことはどうだっていいのだ。
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相川幸。失礼ながら今まで存じ上げなかったのだが、爽やかな笑顔とメリハリのある声が印象的な女優だった。鶴田が運転する帰りの車の中、僕はぼんやりと読み合わせの時のことを考えていた。相川幸は良い印象だったが、少し空回りしがちな気もした。全てにおいて全力でぶつかるタイプ。苦手かもなあ、と呟いた。
「何がですか」
運転席の鶴田が、ルームミラー越しに問うてくる。
「相川幸ちゃん。可愛かったけどね」
「相川さんは、舞台を中心に活躍しておられる方です。彼女も六歳頃から演技のお仕事をしていらっしゃるようなので、大ベテランですよ。橘くんと同じで」
ふうん、と僕は言う。
「基礎知識ですよ」
鶴田が淡々と責めるように言った。こつん、と窓に頭をもたれかけた。僕は、新鮮な気持ちで接するのが好きなのだ。
「橘くんの苦手が分かりません」
「基本あまりないんだけどね。元気すぎる子はちょっと。テンションがついていけなくて」
「おじいちゃんみたいですね」
初めて作った彼女の時も、それが理由で別れた。アイドルグループのセンターを務めるだけあって、僕とは波長が合わなかった。もちろんこの話は鶴田には言わない。
「橘くん、ブログの文面全然送ってきませんね」
「あ、ごめん、すっかり忘れちゃってた」
忘れてた、というのも嘘である。ブログなんて毎日更新しなくとも、たまに更新するくらいの方がファンも喜ぶのだ。鶴田は頭が固いから、そんなことまで頭が回らないのだろう。毎回文面を確認してからアップする辺りも、鶴田の頭の固さが滲み出ている。
「最近忙しいので仕方ないですが、小さな積み重ねはやっておいたほうがいいかと」
確かにそうだね。呟いたその言葉は本心である。小さな積み重ね。それが僕を作っている。
「……このあとはテレビ局に戻って、番宣の収録が二本、合間に雑誌の取材が二本、来年発売の写真集の撮影を挟んで、移動してラジオですね」
「了解」
忙しいことはいいことだ。僕は窓の外でめまぐるしく変わる景色を眺めた。赤いスポーツカー。標識。交差点を横切る人々。忙しいことはいいことだ。無駄なことを何も考えなくて済むからである。
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