銀の糸#7:迷

起きたのは、午後一時を過ぎた頃だった。スマホの機種変更と番号変更をした帰りに、家の近くのスーパーで求人雑誌を何冊ももらった。この雑誌は、私には縁がない物だと思っていた。適当に見つけた職場で、適当に時間を食い潰し、適当に歳を取るのだと思っていた。

 五年。私が勤めた年数は、そんなもんだった。高校を卒業して、家を出るためにそそくさと見つけた職場は、最悪だったが仕方なかった。辞表も出さずにあの職場を離れるとは思ってもいなかった。きっと私は、仕事中に急に頭がおかしくなって飛び出した変わり者として、あの腐り切った場所で語り継がれることだろう。

 イトは、ソファに寝転んでテレビを見ていた。昨日の深夜にやっていた恋愛ドラマの録画のようだ。

「ただいま」

「腹減った」

 ああそう、と言いながら、手に持っていたスーパーの袋をキッチンに置いた。豚肉を冷凍庫に入れながら、どろりとした昨日の記憶を呼び覚ます。

 生きる、という選択肢を選んだ。死ぬことも、選択できたはずだった。何年も何年も、消しゴムの中の紙を広げる度に思っていた感情を、いとも簡単に手放せた。布団に染みを作りながら、声を殺して叫んだ言葉を、私はいつの間にか発することさえ忘れていた。不思議な男に出会って、不思議な体験をした。月に一度行われる『飛び降り』の練習もこなした。それでも、私は生きることを選んだ。

 微かに潮の香りがした気がした。それが妄想の産物だと分かっていても、鼻の奥がつんと痛くなった。もしも、イトと出会っていなければ。そうすればきっと、私はあの時、綺麗に宙を舞っていただろう。

「なんやこれ」

 イトの声で我に返った。振り向くと、スーパーの袋に無造作に突っ込んだ求人雑誌を引っ張り出すイトがいた。

「次の仕事探さんと」

「まだええやろ。金はあるんやろ」

「一応」

 イトの金遣いの荒さで減ってはいたものの、自分では使い道の無いお金が銀行に貯まっていた。

「けど、何するにも金はいるし」

「まあな。あと、明日一万くれ」

「は? 何するん」

「なんでもええやろ」

 イトは雑誌を持って、ソファに腰を落とした。ぱらぱらと捲り、不機嫌そうな声を出す。

「あんた、そんなに金何に使うねんな。私の金やし、知る権利あるやろ」

「勝手にせえ言うたんはお前やで」

「『私がおらん間は』勝手にせえ、言うたんや。残念ながら、仕事は辞めた」

 買ったものを冷蔵庫にしまい、私もイトの隣に腰を下ろした。机の上の煙草の箱に手を伸ばし、イトの紫色のライターで火をつける。

「あんたも働いたらええやんけ。ほんなら、私にやいやい言われんでも金使い放題やで」

 煙と共にそう吐き出す。イトはしばらく雑誌を捲ったあと、ぱたんと閉じて机の上に放った。ぱすん、というような音が鳴って、その風でティッシュが揺れる。

「……で? 金は何に使っとんのや」

 煙草に手を伸ばすイトを制して、私は問うた。また煙で逃げられては適わない。

 イトは少し私を睨み、眼鏡の位置を中指で直した。頭をかき、ため息をつく。ほんの数分前に吸ったであろう煙草の匂いが、ふわりと鼻を掠める。

「……明日」

「ん?」

「明日出かける。着いてくんのやったら来いや」

 諦めたように言うと、私の咥えた煙草を指で摘んだ。私の吸っていた煙草を今度はイトが咥え、ベランダへ出ていく。

「どこへ」

「来たら分かる。どうせ明日暇になったんやし、来んな言うても来るんやろ」

 生暖かい風が、リビングを通り過ぎる。水色の、色褪せたカーテンの向こうで、細い影が揺れる。

 新しい煙草を出して、また火をつけた。ざわつく心臓を、服の上から押さえ込む。混乱した頭を、煙で絡めて落ち着かせる。吸って吐く、そのことだけに意識を集中させる。

 イトの何かを知ることが、こんなにも怖いとは思わなかった。このまま、いつもと同じ夜が続いて欲しかった。

 煙の向こうに、イトが見える。そのさらに向こうに、また女の人が見える。女の人は手招きをする。やめろ、と言いたいのに、声が出ない。女の人に応じたイトが、一歩前に踏み出す。行くな、と願うのも、聞こえていない。踏み出す足が速くなる。イトの背中が遠くなる。行くな、行くなと何度も叫ぶのに、何も聞こえない。

 窓の閉まる音で、私はリビングに引き戻された。ベランダから戻ってきたイトが、ぺたぺたと歩いている。

「どこ行くんや」

「風呂」

 クローゼットを漁り、タオルを持ったイトが振り向いた。目が合う。

「……何や、一緒に入りたいんか」

「んなわけあるか」

 吐き捨てると、イトはぺたぺたと洗面所に消えていった。残った煙が、螺旋を描いて部屋に溶けて消えた。

 しばらくして聞こえてくる、くぐもったシャワーの音。それが、海の波の音に変わっていく。

 宙に向けて思い切り煙を吐き出した。洗面所の気配に耳を寄せながら、今度は自分に尋ねる。

「本当に、生きるのか?」と。

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