銀の糸#11:発

私が家に戻った十分後に、イトが帰ってきた。脱ぎ捨てたスニーカーが、ドアにぶつかる音がした。

「……何してんの」

 ソファの上で丸くなっている私を見て、イトはそう言った。

「疲れた。どけ」

 丸くなった私の背中を、いつものようにイトは軽く押した。いつもなら私も押し返し、しばらく押し合いが続くという遊びになるはずが、今日は力が入らなかった。ごろんと思い切りソファから転げ落ちた私は、机で背中を打った。

「……何してんの」

 イトはもう一度そう言った。見上げると、少し申し訳無さそうにしているイトの顔が見えた。

「……言いたいことあんねやったら言わな分からんって、言うたやろが」

 しばらく真顔でイトを見つめていたら、そう言われた。私は軽く頷いて、ソファの真下でもう一度膝を抱えた。

「なんや、腹痛いんか」

「違う」

「体調悪いんやったらはよ寝ろや」

「違う」

 じゃあ何やねん、とイトが不機嫌そうに言った。ええ加減にせえや、と、言葉が降ってくる。

「……今から私が何言うても怒らんって約束して」

「は?」

「約束して。ほな言う」

「いや、言われな怒るかどうかなんて分からんやんけ」

「まずは約束してや」

 膝に顔を埋めたまま、くぐもった声でそう言った。イトはまた不機嫌そうに唸って、ソファに腰を下ろした。私の手の届くところに、イトの細い足があった。ふわりと香ったのは、ローズではなく、柔らかい珈琲の匂いだった。

「……今日、三好さんに会ってきた」

 ぐっと膝を抱える手に力を込めた。

「三好さんに、お前のこと聞いてきた」

「は? 何余計なことしてくれとんねん」

「怒らんって言うたやんか」

「やってええ事と悪いことがあるやろが」

 こっち向けこら、とイトが私の頭を引っ掴んだ。

「三好さんから伝言聞いてきた」

「聞きたないわ。俺の勝手にさせろや」

「イトが殺したんじゃないって」

 イトがもう片方の手で、頭を掻きむしった。

「違う、俺が殺した。俺さえおらんかったら、今頃あの人は幸せになってた」

「違う、そうじゃない」

「お前に何がわかるんや!」

 暗くて、深くて、深海のような目に、部屋の電気がちらりと写った。息を荒らげたイトに構わず、私は続ける。

「もう十分愛してくれたって」

「聞きたない言うてるやろが!」

「もうこれからは自分のために生きてくださいって!」

 大きい声の張り合いに、窓ガラスが微かに震えた。しんと静まり返った部屋の中、頭を掴まれた女と、頭を掴む男。机の上の紫のライターと、いっぱいになった灰皿。灰を落として焦がした薄いカーペット。直し忘れた靴下。

「……お前ほんま余計なことしてくれたな」

 イトが呟いた。頭は離してくれなかった。

「余計なことやとは思った。でも知りたかった、お前のこと」

「それが余計やって言うてんねん!」

 イトが振り上げた手が、ゆっくりとイトのポケットの中に帰って行った。

「ほんま、何してくれたんや」

 弱々しく、頭を掴んでいた手が緩んだ。膝の上に戻ったイトの手のひらが、力強く握られた。

「ほんま、なんでそんなことしかせんのや」

 小刻みに震える手の甲に、ぱたぱたと、水滴が模様を作った。イトはよく泣くなあ、と思った。何度見ても、イトの涙は綺麗だった。あまりにも綺麗で、胸がざわついた。あんなにも表情も無く口も悪い男が、こんなにも純粋な涙を流すのが、理解できなかった。

「……だって」

 イトの震える手を見つめた。細くて白い指。この指が淹れた珈琲は美味しいだろうな。私はきっと、その珈琲を飲むことは無いんだろうな。

「お前とおったら、全部狂う」

 イトが立ち上がった。紫色のライターを乱暴に手に取って、ポケットにねじ込む。

「どこ行くねん」

「どこでもええやろが」

 鼻をすすって今脱いだばかりのスニーカーに足を入れるイトに向かって、叫ぶ。

「じゃあなんで私をあそこへ連れてったんや!」

 ドアを開けようとしたまま、イトが動きを止めた。

「……お前頭ええねんから、私をあそこへ連れてった時点で、こうなることくらい分かったやろ」

 ドアノブを握るイトの向こうに、夕日が見える。だんだんと半球形になっていく夕日と、細い背中。

「……あんた、止めて欲しかったんちゃうんか」

 私は言う。

「本当は、解放してほしかったんちゃうんか」

 がちゃりと音がなり、ドアが開いた。イトの出て行く音がした。遠ざかる足音を聞きながら、私は煙草に火をつけた。

 イトがどこに行くかは分かっていた。何をするかも予想出来た。私は、ゆっくりと時間をかけて煙草を吸った。煙草が久しぶりに二センチくらいになった。煙草を灰皿に入れ、歯を磨いて、服を着替えて、家を出た。電車に揺られて、一駅。自殺の名所は、そこにあった。

 真っ暗な名所には、人はいなかった。ぽつりと佇む細い背中の向こう側に、細い煙が立ち上っていた。

「何迎えに来んの待っとんねん」

 イトの隣に並んで、私は言う。

「遅いわ。待ちくたびれる言うねん」

 煙を吐き出しながら、イトが答える。

 イトの顔に付いた涙の跡が、微かに消えかけている。波の音だけが耳をくすぐる。私はイトの足元の岩に腰を下ろした。風で揺れる前髪が、不思議な目を見え隠れさせていた。

「……幸せやったんかな」

 ぽつりとイトが呟いた。結さんのことを言っているのだと、何故かすぐに気が付いた。

「……それは分からんよ」

 正直に答えた。そらそうか、と、イトが鼻で笑った。

「でも」

 イトがこちらを見る。

「今私は、幸せやで」

 波の音。いい匂いとは言えない潮の匂い。細い足首と、煙で濁った空気。

 しばらくの沈黙の後、イトが私の隣に座った。胡座をかいたイトの足が、私が体を支える手に少しぶつかった。

「……なあ」

「何?」

 イトが煙草を岩に押し当て、火を消した。

「……お前の名前、何やっけ」

 静かに呟いた声は、珈琲に入れた砂糖のように溶けていった。それは、確かに、彼の呟く精一杯の感謝の言葉だった。

「……真緒」

 マオ、とイトは繰り返した。

「そう、真緒。金白、真緒」

 心地よい冷たさの岩の上で、いい歳の大人二人はしばらく座り込んでいた。あの日出会った時のように、どちらも真っ暗な海だけを見つめていた。でも、どちらも靴を脱ごうとはしなかった。

 自分たちの後ろで、終電が発車する音がした。追いかけようとは思わなかった。気が済むまでここにいようと思った。何人もの人が命を落としたこの場所が、私たちの発車地点になった。

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