【小説・短編】オマージュ

 最後の訪問先を出たのは、五時前だった。
 関西出張の二日目。今夜はのんびりできそうだ。
 飲みに行くか。歩き出すと会社支給の携帯が鳴った。知らない番号。仕事だ。応答する。
「久しぶりやな。わかるか」
 島田。あいかわらず声はいい。
「こっちに来てるんやろ」
 なぜ、わかるのだ。
 私の勤務先から強引に聞き出したのか。島田ならやりそうなことだ。
「沢田正志の知り合いに、しつこいのがいる」と思われたかもしれない。
「懐かしいやんか。昔話でもしようや」
 思い出話などしたくはないが、島田は大学の先輩で、バンド仲間だった。どうしているのか、興味はある。
 誘いに乗った。一人で飲むつもりだったのだ。時間はある。
「今も京都におる」
 店の名前と場所。懐かしい地名だ。どんな再会になるのか。ホテルに荷物を置き、私は大阪駅から新快速電車に乗った。

 京都の私立大学に入学して、私はロック系のサークルに入った。三回生の島田とはそこで出会った。
 私は中学二年生でギターを始め、高校では、そこそこの腕前になっていた。学校にはフォークソング・クラブしかなかったが、ハードロックを演奏して目立った。「ブリザード」というバンドを結成し、文化祭で人気者になった。他校のバンドと、市民会館で演奏会を開いたこともある。棒付きキャンディーを咥えながらソロを弾いて大受けした。
 そんな実績から、少しは自信があった。サークルでは歓迎もされた。
 初めて島田の歌を聞いたのは、新入生歓迎コンサートだった。彼は単独で活動していて、あるバンドのゲストボーカルとしてステージに立った。
 レベルが違う。そう思った。自分の世界を作っていた。
抑えたステージアクションも新鮮だった。「ブリザード」のボーカルはオーバーアクションの連続で、私には、悪ふざけとしか思えなかったのだ。
島田が話しかけてきたのは、五月の半ば、蒸し暑いサークルの部屋だった。
「おまえ、けっこう弾けるそうやないか」
 私はツェッペリンの「ホール・ロタ・ラブ」のリフを弾いていた。棒付きキャンディーを咥えながら。
「タバコっちゅうのはあるけどな、キース・リチャードとか」
 島田は正面に腰をおろした。
「ジミー・ペイジもやってたか。おまえは、飴ちゃんかよ」
「まだ十八なんですよ。キャンディなんて、ロックっぽくないけど」
 島田が見つめる。
「一緒にやらへんか。目標はプロや」
 彼が、私を誘った理由はわからない。他にも弾ける者はいたはずだ。
 考えたのは一瞬だった。頷いていた。「プロ」という言葉に、惹かれたのかも知れない。
 
 京都の秋が深かった。風が強い。寒かったが観光にはよい時期で、人出は多かった。駅からタクシーで十五分ほど走ると、目的地に着いた。
 学生時代の馴染みの地域だ。道に迷うことはない。
 路地に小さな看板が出ている。店名の横に「おでん・小料理」とあった。藤色の暖簾が、風に吹かれている。
「いらっしゃいませ」
 大きな店ではない。島田はL字型のカウンターの一番奥にいた。他に客がふた組。女将が「どうぞ」と言う。島田が軽く手を上げた。隣に座る。
「十五年ぶりってとこか」
「ですね。正確には十四年と八か月ですか」
 ビールを注文した。すでに二合入りの徳利が一本倒れていた。二本目の徳利から、島田は酒を注いだ。
 女将から瓶を受け取り、島田がビールを入れてくれた。泡の方が多かったが、気にする様子はない。盃をつまみ上げて、こちらに向けた。私もグラスを掲げる。
「お久しぶりです」
 
 ふた月ほど前に、島田はバンドを抜けていた。
「方向性の違いや」
 そう言っていたが、本当は人間関係だと、別の先輩が教えてくれた。
 メンバーを探していた島田にとって、私は好都合だったのだろう。
 同じ新入生で、城間茂という沖縄出身のベースを加えて、スタートした。城間は痩せて口数が少なく、目立つタイプではなかった。ストーンズのビル・ワイマンが好きで、ていねいな演奏をした。ミスがほとんどない。
「ごまかしてるだけさあ」
 褒められると照れる。島田は関心がない、という顔をしていた。
 ドラムは、城間が具志堅太郎を連れてきた。同郷の顔見知りらしい。具志堅はテニスサークルに入っていたが、掛け持ちでやると言った。ドラムは高校から始めたという。
 プレーは迫力があった。パワフル。汗を飛び散らせ、ひたすら叩く。荒削りだが、個性的。島田は具志堅の演奏を見て、よく笑っていたものだ。
 島田以外は一回生のメンバーだったが、彼の要求は厳しかった。ミスには容赦がない。悪態をつき罵倒する。そのくせ、自分のミスは認めようとしない。怒って物を投げることもあった。ぶつけないように気を付けてはいたが。
 具体的でない指摘もよくあった。
「なんか違うねん」
「イモーションが足らんねん」
 どう対応するか、悩んだものだ。
 とんだ専制君主だったが、私は島田のボーカルに魅了されていた。
 大学生が歌うような選曲ではなかったし、ハードな曲もスローバラードもこなした。挫折、失望、喪失、後悔、怒り。「イモーション」があったのだろう。幾多の人生経験を感じさせるムード。私のような世間知らずが触れたことのない世界を、島田は歌いあげた。

「苦労したで、連絡取るの」
 私が気にしていたことだ。
「一流企業は違うわ。なかなか連絡先、教えてくれへん」
 社員の個人情報はお答えできません。
 断られたが、粘りに粘り、営業用の携帯番号を聞き出した。さらに、対応した人間が余計なことを言った。
「沢田は関西方面へ出張中で、出社しておりません」
 私に会うチャンスだ。島田は考えたわけだ。そのいきさつを女将に語る。自慢げなのが、鼻に付く。
「やっぱり、ちゃうな。大企業は」
 彼女が「そら、そやわ」と返す。
「個人情報は守らんと。当たり前ですよね」
 返事をする前に、島田が割って入る。
「お酒、ちょうだい」
「大丈夫? ペース、速ない?」
 島田は取り合わない。話を変えた。
「こいつのギターが泣かせるねん」
 やはり女将に言っている。
「女の子にキャーキャー言われてな」
 私は苦笑して、ビールをつぎ足した。

 夏休みから、私たちはライブハウスに出演するようになった。
 島田がオファーを取り付けてきた。彼のボーカルは関係者からも評価されていて、顔が利いたのだ。
 バンド名は、「京都烏丸ブルースバンド」。ライブハウスのオーナーが名付け親だ。あご髭が三十センチくらいある。地元の有名人。
「かっこええやん」
 島田も大物の意見は聞く。
「『京都烏丸ブルーズバンド』だ」
 当然、自分の主張を付け加えることは忘れなかった。オーナーが苦笑していた。
「キャンディ、咥えとけよ」
 私には相変わらず偉そうだ。黙って従った。
 具志堅は出番直前に飛び込んで来て、テニスウェアのままでステージに上がる。
 島田の歌、汗だくドラマー、キャンディギタリスト。興味を持たれ、そこそこの数の客を集めた。
 城間は堅実だった。「ベース、うまいじゃないか」と髭のオーナーが呟くのを聞いて、私は悔しさを感じた。自分はキャンディで受けているだけなのだ。
 それでも、名前と顔が知られるのはうれしかった。実力派のボーカルとベース。ユニークなギターとドラム。地元のラジオ局が取材に来たこともあった。
 客前での演奏はプレーヤーを成長させる。
 大学祭には、プロのバンドがゲストで来たが、私たちは前座をつとめた。一回生が三人。異例だった。私たちは自信をつけていった。
 
 上機嫌で、島田は女将と話をしている。学生時代の自慢話だ。
 確かに、いいバンドだった。学生バンドとしては、だ。口を挟みたかったが、きっかけがなかった。
 強引に会おうとしたのに、島田は私との会話を避けていた。
 女将が話しかけてくれるが、短い会話で終わってしまう。島田が話を横取りするからだ。
どこまでも勝手な先輩だった。

 後期試験が終わり、久しぶりに部室に行くと、島田が待ち構えていた。
「お前、こういう演奏できるか」
 CDプレーヤーのボタンを押す。
 むせび泣くギター。ゲーリー・ムーアだ。「パリの散歩道」
 もちろん曲名は知っている。
「それでな」
 島田が顔を近づけた。
「俺、これ歌いたいから。練習するで」
 彼は「スティル・ゴット・ザ・ブルース」を鳴らした。大学生が演奏する曲ではない。
「弾けるか、テクニックだけとちゃうぞ」
「先輩、舐めないでくださいよ」
 言っていた。
「言うたな」
 楽譜が放り出された。
「城間と具志堅は」
「あいつらにも渡す。スタジオも借りてる。明日からやぞ」
 練習が始まると、島田は王になる。奴隷を従える大王だ。
「偉そうに言うてたのに、全然あかんやん」
「だけど」
 確かに、本家のようには弾けない。それでも、大きなミスをしているわけではないのだ。
「テクニックだけとちゃう、言うたやろ」
 ようやく大学二回生になる若造である。人生経験や苦悩がにじみ出る、そんな音が出せるはずがなかった。
 言い返したかったが、思いとどまった。この曲はギターに尽きる。ギターが泣かなくては意味がない。それはわかっていた。
 島田のボーカルは気持ちを震わせた。歌で泣いている。二歳年上なだけだが、それができた。
 ユニークなギター弾き。そんな評価はまっぴらだ。私はくちびるを噛んだ。血の味がした。本気になった。
 個人でレンタルスタジオを借りた。そんなことは初めてだ。バイトする暇などない。費用は親に頼んだ。
「私大の授業料、安くないんだぞ」
 父親が渋い顔をする。いつか親孝行するから。クサいセリフを言って、頭を下げた。
 指先が切れる。絆創膏を貼ると音色が変わる。それもいいかもしれない。試行錯誤した。
 新年度の講義を欠席した。時間が惜しい。ギターを弾いていたい。
 見かねて、城間が言った。
「それはだめだよ。授業には出ようよ」
「そうさあ。僕はテニスも続けてるよ。そのほうが気分いいよ」
 具志堅が笑う。ピンクのカーディガンを肩にかけている。
「音、変わって来てる。いっしょにやってたらわかるさ」
 城間が私の背中を軽く叩く。小さな手だが、上手なベーシスト。
「先輩もわかってると思うよ」
 気持ちが楽になった。
 四月の中頃、島田が言った。
「まぁ、ようなったんちゃうか」
 五月の連休に初披露した。いつものライブハウス。客の耳は肥えている。
 ソロ。祈った。ギターよ泣いてくれ。観客が聴き入る。島田のボーカルが冴えた。目を潤ませる女性さえいる。手応えはあった。
 控え室へ戻って来ると、島田は無言だった。不機嫌な様子にも見えた。
「先に帰るわ」
 島田が片手を上げて出て行く。私たちは顔を見合わせた。まだ片付けの途中だ。

「キーボードが必要やと思うねん」
 祇園祭の前、暑い日だった。島田はまじめな顔をしている。
「音に厚みが欲しいねん」
 私は必要ないと思った。四人で実績を作ってきたのだ。サークル内では一目置かれる存在だ。ライブでの評価も高い。
 城間が反応した。
「そうですね」
「いいんじゃないですか」
 言って、頷く具志堅。テニスウエアではなく、ハイビスカス柄のシャツを着ていた。
 私は黙っておくことにした。どっちでもいいや。自分を納得させた。
 翌日、新メンバーが現れた。
「どや、かわいいやろ」が島田の第一声だった。女子大一回生の富田カノンは、恥ずかしそうに笑っていた。
「彼女はええぞ」
 島田が、無表情な私を見て言った。沖縄出身の二人はうれしそうだ。
 私は懐疑的だったが、すぐにその考えを改めることになった。彼女は逸材だったのだ。
 楽譜も読めたし、島田の要求にすぐに対応できた。ピアノだけではなく、電子オルガンやシンセも扱った。作曲もする。
 練習の休憩時、島田は煙草を吸うためにどこかに消える。いつものことだ。
 その間、私たちが談笑していると、カノンは積極的に輪に入ってくる。できるだけコミュニケーションを取ろうとする彼女に、私は好感を持つようになった。
 彼女が客前に出ると、一気に人気が出た。カノン目当ての客が増え、カメラを構えるファンも現れた。まるでアイドルだ。ブルースバンドとしてはどうなのか。私は複雑な気持ちだったが、客が多いのはいいことだと考えた。
 音楽雑誌にも載った。カノン中心の記事だったが、アマチュアバンドにしては、大きな扱いだった。
 ステージの回数が増え、島田の機嫌はよかった。その年の十二月は、スケジュール帳が真っ黒になっていた。

 新年の二日。具志堅、城間と私は、河原町の喫茶店にいた。バンドはクリスマス前から十七本のステージをこなしてきた。年が明け、時間ができ、同期メンバーだけで集まった。沖縄出身の二人は里帰りもしなかったのだ。
 街は初詣の人で賑わっている。この時期、コーヒー一杯が千円。いつもの倍だが、仕方がない。
「試験、だいじょうぶかなあ」
 城間が嘆いた。後期試験が始まる。自分たちは大学生だ。プロのミュージシャンではない。留年など、親が許さない。春からは三回生で、将来のことも考えなければならない。三人同時にため息をついた。
 他にも気になることがあった。
「島田さんはどうするんだろう」
 まもなく卒業である。彼は就職活動などしていない。バンドを続ける気なのだろうか。
「家の手伝いをするって言ってたよね」
 具志堅が言う。寒さが苦手で、喫茶店の中でもマフラーを巻いたままだ。
「小さな運送会社だって」
 城間が言った。やはり寒そうだ。
 春からの自分たちを想像してみた。
 社会人と大学生。地元で人気のアマチュアバンド。プロになれる保証などない。島田は実力者かも知れないが、それでデビューできる世界ではあるまい。わかりきったことだ。富田カノンに人気があっても、変わらない。
「目標はプロだ」
 島田のことばに惹かれたのは確かだ。
 ただ、自分がプロになりたいのか、よくわからなかった。具志堅と城間も同じだろう。
「とにかく、試験、がんばろう。なあ、フランス語演習のノート、ちゃんと取ってる奴、知らないか」
 二人が首を横に振った。
 困った。私は冷めたコーヒーを飲んだ。一杯千円のコーヒー。

 私は、あのコーヒーの味を思い出していた。不思議なものだ。なぜか覚えている。
「今じゃ、こいつは立派な会社員や。しかも高給取りの」
 二合徳利を三本空けて、四本目を頼んでいる。島田の口調が怪しい。
「そうなんやてね。うらやましいわ。お住まいはどこ」
 女将が話を振ってくれる。
「東京の」
 答えたところで、島田が私を見た。
「高級住宅街やろ。それともタワマンゆうやつか」
「そんなとこ、住めるわけないですよ。郊外です。都心まで電車で五十分かかります」
「お前は賢かったからな」
 絡むような口調ではなかった。
「それでよかってん。せやけど」
 小さな声だった。
「ええギタリストやったで。ええギタリストやったけどな」
「いや」
「お前は賢いねん。それが正解やねん。わかっとんねん。俺がアホやねん」
 どうしたというのだ。私は黙っていた。
「潮時やねん。しんどいわ。もうええわ。わかっとんねん。未練がましいねん」
 飲み過ぎだ。島田がまだ何かを呟いている。顔を近づけて聞いてみた。
「沢田に、城間に、具志堅、富田、最強や」

 卒業後も、島田は私たちと活動を続けた。さすがに、大学で練習するのは気が引けたのか、自腹でスタジオを借りてくれた。
 その頃から、彼はデモテープを持ってプロダクションを訪ね始めた。音楽事務所の多くは東京にある。交通費は馬鹿にならなかっただろう。
 興味を示した会社もあったが、ほとんどの場合、カノンに対してだった。彼女単体なら、そういう事務所もあったらしい。
 島田が勝手に動くので、私たちは戸惑った。バンド活動は順調だったが、プロとなれば話は別だ。才能あるプレーヤーはたくさんいるのだ。
 相談がある。富田カノンが連絡してきたのは、大学祭が終わった二日後だった。ポプラの落ち葉が風に舞っていたのを覚えている。
 河原町の喫茶店で会った。コーヒーはいつもの値段だ。
「えっと、あの」
 カノンが話し出したが、あとが続かない。下を向いている。時間が過ぎる。
「話したくないなら、無理しなくても」
 少ししびれを切らした。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 彼女が慌てている。客前で笑顔を見せるカノンとは違う。店の入り口を気にしたりする。
「もしかしたら、誰かに付きまとわれて困っているとか?」
 カノンが目を見開いた。
「わかります? 正志さん」
 彼女は私を名前で呼ぶ。具志堅は「ぐっしーさん」、城間は「ジョウさん」。島田は「島田さん」だ。
「よかった、正志さんに言って」
 予想はしていた。彼女のファンは熱心だ。暴走することがあるかも知れない。場合によっては、警察に相談しなければならない。
「相手が誰かは、わかっているのかい」
 カノンがまた黙った。涙が浮かんでくる。
 十数秒後、決心したように彼女が言った。
「島田さんです」
 今度は、私が黙った。カノンが細い声で説明する。
 加入してすぐに、島田が誘い始めた。理由を付けて二人になろうとする。最初はコーヒー程度だったが、それが酒を飲みに行こうになった。
「私、未成年ですよ」
 断っても執拗に誘う。 
 島田のアパートで打ち合わせをする。他のメンバーも来ると聞かされた。たまたま具志堅にその話をした。
「あれ、僕たち、その日は沖縄出身者の会があるよ。城間も行くよ」 
 怖くなって「急用ができた」と断った。
「なんやねん。予定、狂うなあ」
 島田はいかにも困った顔をしていたそうだ。
 私がまったく知らない話だ。
 ライブの打ち上げのあとは、いつも以上にしつこい。ホテルの前まで連れて行かれたこともある。
「今まで、なんとか断ってきたんですけど、最近は」
 最近は、東京のプロダクション回りに連れ出そうとしている。
「そんなのお泊まりじゃないですか、当然」
 カノンが顔を歪めた。二人ならデビューできる。そう言っているらしい。
 何だというのだ。勝手な先輩だが、少なくとも、バンドのことを考えて動いている。そう思っていた。私は舌打ちをした。
 昨日は彼女の自宅近くに現れた。待ち伏せと言っていい。
 大学から帰ると、島田がいた。まだ早い時間で、それほど暗くない。
 道ばたでしばらく話をした。また、プロデビューの話だった。
 とてもそんなこと、考えられない。同じことを答えた。
 突然、抱きつかれた。住宅街である。車も人も来ない、その時を狙っていた。顔が近づいてきて、たまらず大声を出した。さすがに、それで放してくれたという。
 カノンは顔を赤くした。
「私、もういっしょにできません」
 言って唇を噛む。
 私は腹を立てていた。
『パリの散歩道』や『スティル・ゴット・ザ・ブルース』がなんだというのだ。何が「テクニックだけちゃうぞ」だ。あんたは何をやっているのだ。
 それにしても、と思った。なぜ自分なのだ。冷静な城間や、明るい具志堅ではなく、なぜカノンは私に相談しているのだ。
「事情はわかった。心配しないで。で、僕らは、いや、僕はどうしてあげればいいかな」
 彼女が答えた。
「守ってほしいんです。私を。守ってください、正志さん」
 翌日、「京都烏丸ブルースバンド」は崩壊した。

 島田は酔いつぶれてしまった。少し残った酒を女将が注いでくれた。
 ほとんど酔えなかった。なぜここにいるのだろう。もう少し飲みはりますか。聞かれたので、燗酒を一合だけ頼んだ。
「沢田正志さんに、城間茂さんに、具志堅太郎さん。それにカノンさん」
 女将が言う。驚いて尋ねた。
「ひとりひとりの名前もご存じなんですか」
「いつも自慢してはります。ええバンドやってん、て」
 私はただ頷いた。
「嬉しかったんやと思います。あなたが来てくれはって」
 島田は家業を手伝いながら、今も月に二度、ライブハウスで歌っている。だが、彼の父親が仕事に専念するように迫っている。かなり強く言われているそうだ。
「それもあるけど」
 女将が小さな声で教えてくれた。寝ている島田を起こしたくないのだろう。
 最近は、ライブに人が集まらないらしい。自分が見た日は九人だった。言った女将が顔を伏せた。
 中年男の弾き語りだ。今の流行りとかけ離れている。
「潮時だ」とはそういう意味か。
 それにしても、と思う。
 あれから十五年、音楽を続けてきたのだ。カウンターに突っ伏している島田を、しばらく見つめた。
 支払いをしようとすると、女将は受け取らなかった。島田さんのツケにしときましょ。笑いながら言った。
「ほとんど酔うてはりませんやん。せっかく来てくれはったのに。責任取らしましょ」
 代わりに、この人を家まで運んでくださいな。やっかいなことを頼まれたが、断れなかった。
 酔い潰れた島田を抱えて、教えられた場所に向かった。店から五分ほどの安アパートだ。風は冷たかったが、汗をかいた。
 鍵は上着のポケットにあった。古びたキーホルダーがぶら下がっている。アクリル製のギブソン・レスポール。ため息が出た。
 正体を無くした島田を引きずって、中に入れる。明かりを点けた。質素な部屋だった。小さくても、一応は運送会社の跡取りである。もう少しましなマンションに、住めそうなものだ。
 外より室内の方が寒かった。玄関に放っておくわけにはいかない。さんざん苦労して、シングルベッドに寝かせた。島田はときどき唸り声を出すだけだ。毛布をかける。
 やれやれ。またため息が出る。
 部屋を見渡した。運送会社の制服。ハンガーにかかっている。これを着て仕事をし、月に二度ライブをやる。少ない客の前で、時代後れのブルースを歌う。
 思い出した。このやっかいな先輩は「ブルーズ」という発音にこだわっていた。
 日本語ならブルースでいいだろう。意味があるのか。
 面倒くさい男だ、まったく。それでも、いや、それだから、島田の歌には感情があった。「イモーション」というやつだ。
 壁の写真に気付いた。
 私がいた。具志堅太郎がいる。城間茂がいる。笑っている島田。カノンもいた。微笑んでいる。
 他にも、ステージの写真や雑誌の切り抜きが並んでいた。変色している。
 ベッドの男に目をやる。時間が止まった室内を見て、一度大きく息をした。ため息ではない。先輩と同じ空気を吸う。
 部屋を出た。
 表通りまで歩く。タクシーが来た。
「京都駅まで」
 運転手に言ってから、電話をした。
「飲んでたの」
 私の妻は勘がいい。
「うん。突然、島田さんに呼び出された」
 少し間があって、カノンは「そう」と答えた。それだけだった。
『ハートの空白、お前のいた場所
 スティル・ゴット・ザ・ブルーズ
 今でもお前のためにブルーズを』
 そう歌う、島田のボーカルが懐かしかった。

〈了〉 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?