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俳句と相合傘

これは約十年前の話。ある冬の朝、俺がいつものように自転車を盛りこぎして片道8キロの山道を登って通学し、げた箱から上履きを出そうとすると一枚の手紙とチョコレートが入っていた。今時こんなべたべたな設定は少女漫画でも見かけないが変わったことをする者がいたもんだと思った。差出人は部活の同期の女子、あの子か。俺は彼女のことについて語らなければならない。彼女、ここでは日本語訳ではなく英語圏でのsheを表す。仮に西川とする。あだ名の由来はTMrevolutionファンだから西川というあだ名がついた。

彼女は同じ文科系の部活でいつも絵を描いている子だった。絵柄は90年代の古いアニメで瞳は大きくまつげを長く描くのが特徴的だった。西川父の影響でガンダムシリーズや特撮、その他一般的に男の子向けのジャンルが好きなオタクだった。その子と出会ったのは俺が高校二年生の梅雨のことだった。

俺は一年生までは美術部に所属していたが顧問と一悶着あり、まじめに続けていた美術部を退部することになった。退部して新しい学年になり、部活は帰宅部にするか、それとも文科系の部活に入るかで悩んでいた時クラスメートの腐女子がうちの部活来る?と誘ってくれたのがきっかけだった。

部室は作動部と兼用になっており、和室、その中で西川がちょこんと座っており、机に向かって黙々と絵を描いている姿が初対面だった。「こんにちは部活見学に来たんだけど見てっていいかな」「いいよ」

机の上を見渡すと、西川の描いている90年代の絵柄のイラスト、歳時記、コピー用紙、電子辞書、部誌などが散らばっていた。俺が美術の次に取り組む青春はアニメでもおなじみの文芸部だということを瞬時に察した。当時、大のオタクだった俺はライトノベルやアニメでしか存在を知らなかった文芸部の実在を確認してテンションが上がった。しかし、やはり読者の皆様同様、文芸部の主な活動実績を一切知らないまま仮入部するした。

しばらくして、顧問の先生が部室にやってきてお茶とお茶菓子をくれた。

「魔剤くんは今日から借り入部で来たんだね、じゃあいきなりだけどちょっとやってみようか」「やるって何を?」「俳句だよ」

俳句、日本のポエム、17音で構成され、季語を入れてエモい風景を短文の中に切り取る遊び

なんとなく、今の認識ではこんな感じだが当時は交通安全の標語のようなものを想像した。

俺はなにもわからないので、「素麵や夏はやっぱり揖保乃糸」というカスみたいな俳句を初めて書いた。いや俳句にはぎりぎりなってるけど思いっきりパクってるじゃんと顧問の先生から指摘されてしまった。西川もくすっと笑っていた。

それから一か月後、俺は普段から聞いていなかった授業の時間を絵を描くのではなく外の様子をぼーっと眺めながら俳句を考えるようになっていた。

それまで自分が何となくやりたいと考えていたことは小説で、将来は「耳をすませば」の雫みたいに小説家になりたいという夢があった。しかし当時の俺には今のように物事を長い文章で説明するという能力が皆無だったため、たった17文字で世界のすべてを説明する俳句という文化にひどく惹かれていった。俳句の一つ一つには先人たちがうんうんうなって考え抜かれ、洗練された言葉の並びとなっている。それはコピーライターのようなもので、どの言葉が一番美しいか、一番意味を正しくくみ取ってもらえるか、ツッコミどころはないかなど考えることはいろいろあったが、それをひっくるめて俳句を詠むことの楽しさに気づいた。

そんなこんなで一か月、俳句の選抜チームに俺は選ばれていた。先生曰く、女子ばかりの部活に男子が入ったらどんな新しい風が吹くか楽しみとのこと。俺は地方大会で一か月しか俳句経験がなかったがとんとん拍子に勝ち上がってしまい全国大会に出場することとなった。

帰り際、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。俺は傘を忘れたのでどうしようかと悩んでいると西川が「魔剤くん、傘忘れたの?」「まぁね」「よかったら入る?」と、誘ってくれた。人生初の相合傘を西川とすることになった。西川の身長は俺よりもずっと低かったので俺が傘を持って歩いた。そのとき西川が何を考えていたのかわからないが、俺と似たようなことを考えていたに違いない。

つづく

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