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集団的独りよがり。

要点:一人称複数に紛れたい理由

僕らはそれぞれが孤独であるべきなのに、いつも一人称複数を使いたがる。一人称複数のぼんやりとした不死身の概念でいたいのだ。僕らのうちの一つが消滅したとしても、次の僕らがどこか深いところからやって来て、僕らを補強するような気がするのだ。

僕ら、私達、我々。孤独であるはずなのに複数を語ることで、僕らは自らを武装する。脆弱な僕らの主義・主張は、一点に収束せず、常に拡散したままでいることができる。それは僕らが僕らを定義しないことによってのみ保障されている。

僕らが一人称単数で語り始めたとき、それは僕らの主義・主張が死に始めたことを意味する。人は生まれたとき、死に始める。生まれなかったら死ぬことはないのだから。胎児にならなければ、臍の緒に繋がれなければ、僕らはずっと虚構の海の中を遊泳していられるのだ。

複数形で語ってさえいれば、理解され難い孤独(僕らの啜り泣きはいつもその性質を持っているし、むしろその性質を持っていなければ僕らは僕らでなくなってしまう)を、どこかの誰かが共感してくれることを確信して、囁き続けることができる。複数形で語られることで、それは集団で共有されることを明示的に宣言されるからだ。

こういう理由で僕らは孤独であるのに、複数形であり続けている。海月みたいに弱い僕らは、あの懐かしい汀に打ち上げられて干からびるその日まで、ずっとこうして漂い続ける。

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