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本気を出すのが怖かった。卒業制作のリトライ。

本気出していますか?

突然ですが、この文章を読んでくださっている皆様… 「本気」出していますか?何か自分が深く探究したいこと、自分の道、ライフワークと思っているものに対して本気で向き合っていますか?
私はタイトルにあるように、本気を出すのが怖くて逃げていたということを、痛いほど自覚したので、文章に残そうと思いました。これは戒めでもあり、宣言でもあります。
ここ最近で言うと会社員時代後期では企画職でデザイン業から離れることが多かったですし、合間の時間も疲れているからという理由で何も作らず、
フリーになってからも手近な作業的なデザインやお金になることを目指して案件を探したりしていました。

つまり「本気で表現すること」から逃げていたのです。

仕事や日々のタスク自体はある程度は仕方の無い流れですし、悪くはないのですが、そもそも私は何をしたくて会社を辞めたのだっけ、、、と言うより、もっと根本的な話、私は昔何になりたかったのだっけ、何をしたかったのだっけ、、、という疑問が浮かぶようになりました。

本気を出さない例えばなし

急にデザインの話から逸れるのですが、「本気を出さない例え」として浮かんだので例に出してみます。
私は甥っ子と会うとSwitchでゲームをすることがあるのですが、ゲームをする時に子供達はわざと高いハンデを自分につけて負ける要因を作り、負けた時の言い訳できるようにするのです。笑。子供がゲームでやるくらいならカワイイものですが、これ、実は私も同じことをやってるじゃん、、、と気づいた時にゾッとしました。
自分で別のもので忙しくしたり、できない理由を並べたりして、たまに気が向いて自主制作を作ったとしても、「あー時間がなかったし、作り込めなかったんだよね」「子供が小さいから睡眠不足でそれどころじゃ無いんだよね」なんて自分にめっちゃ言い訳して、本気を出してないものをハリボテ的に急いで作っては「私は全然認められないや」「全然見てくれる人がいないわ」「才能ないのかな…やる気ないわ」なんて拗ねモードの私がいました。

子供の頃はこんなこと考えずに本気でどんどん描いて表現していたのに、表現することから逃げるようになったこの現象は、これはいつからおこったのだろうと考えると、美大生時代の卒業研究(卒業課題)に思い当たることがありました。

卒業研究での「逃げ」

私の学科はアートではなくデザイン学科ということで卒業制作じゃなく「卒業研究」だったので、ただアート作品を作ることは求められていなかったのは承知でしたが、本当にビジュアルとしての表現を作らなかったのです。
もちろん展示の見せ方、装丁やレイアウトなどにはこだわりましたが、デザイン論をすごくそれらしくまとめただけで、自分の実力で自身の表現を研究に「デザインの例」として付け足すのが怖かったのです。自分の中における卒業制作の立ち位置があまりにも高すぎて、
「一生一度」
「学費払ってもらってるから成果を出さないと」
「ここで賞を取らないと終わる。。。」
「変なもの作ったらみんなに見下される。。。」と本気で思い詰めていました。
結果、ごりごりの研究をして、それはそれで熱中して楽しかったのですが、他の同級生が自由に制作してるのをみると、「ああ、私は何て堅苦しいことをしていたんだ…」と思うこともありました。(あの研究自体は今の自分の根本にも生きているので、ある意味私らしかったし、結果オーライ♪と今では思っています。)

卒業制作のリトライ。気持ちは美大生に戻ります

かなり年数が経った今でも、悪夢ととしてこの卒業制作の場面が出てくるのが多いです。みんなが自由に楽しく制作していて、自分は時間切れみたいな悲しい(笑)場面。ハッと目覚めて、現実では卒研はもう終わったんだと、思うと同時に、これからは「もっと表現したい」とその悪夢を見る度に思っては、その熱意は日々の忙しさに消えていく、、、の繰り返しでした。
そして私がnoteで美大の話をよく書くのも、自分のアイデンティティであるのと同時に、まだまだそこにやり残しがあって、そこでやりきれなかった何かを会社員を終えた今からやろうとしてる現れなのかもしれません。

ということで私はこれから先、自分の中での卒業制作のリトライをし続けるのだと思います。気持ちは美大生に戻ったつもりで、言い訳せず、ハンデもつけず、拗ねず、本気で表現してきたいと思います。

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