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【33/1096】自分の中にあるもの

33日目。ゾロ目の登場である。33。3の倍数。素数かと思ったら、違った。(数学はできなかったなあ、そういえば)まだ先は長いのであるが、1096日を目指して進んではいるところです。

さて、今日は、岸田奈美さんのこの記事を読んだので、そのことを書いてみる。(11/8までの期間限定公開らしいです)
(「死ね」という言葉が出てきますので、イヤな方は読まないほうが良いかも)

他人に対して、「死ね」と思うことと、実際に言葉にして発語することとは雲泥の差がある。
人は、自分の内側では何を思っても、考えても、自由だ。
憲法でも保障されている。
しかし、表現するときには、なんでもかんでもOKというわけではない。
表現の自由とは、基本的人権の上に成り立っているのであって、相手の人権を損なう表現をしてよいということではないからである。
他人に対して「死ね」というのは明らかな攻撃であるから、他人に対して表してはいけない。そのことは十分に承知している。

しかし、昔はそうではなかった。
わたしが高校生のころ、「死ねばいいのに」と連発していた。
他人に言ってはいけない言葉である、という認識がなかったわけではない。
だがしかし、ほんの少しの些細なことでも、「死ねばいいのに」と誰彼構わず、攻撃していた。
学校の先生にも言ったし、クラスメイトにも言ったと思う。
面と向かって言ったというのではなくて、背中に向かって聞こえないように、つぶやくみたいなことしかできなかったけども、相手に対して言葉に出していたことには変わりない。
もし、相手に聞こえていて、「今、なんていった?」とか攻撃されたら、平謝りしたんじゃないかと思う。小心者であったから。そういう記憶はないけども。
誰に対して放ったかもわからないくらい、「死ねばいいのに」と言っていた。
テレビの中の人にも言ってたし、本の登場人物にも言っていた。
なにかひっかかることがあるとき、「死ねばいいのに」と口からこぼれた。

あの頃は、本当に死にたがっていた。
「あんたなんか、死ねばいいのに」
「いなかったらよかったのに」
「なんで生きてるの」
と人から言われた言葉に傷ついていて、それを繰り返し自分の中で再生してずっと自分を傷つけていた。
そして誰にもそれを相談しなかった。
誰にも聴いてもらえない困難さは、自分に向かうか、他人に向かうかして露呈する。
小さくつぶやいて、誰にも拾ってもらえなかったものは、飲み込んで自分を壊していった。
一回壊れたけれども、そのまま死ぬことはなかった。
今は、図太く生きている。
自分の中にあったその「死ねばいいのに」という攻撃しまくる自分と、つながることで回復した。傷ついて死にそうになっていた自分とも。
すべては自分の中にある。

それから数十年経って、今はもう、自分にも他人にも「死ねばいいのに」などとはまったく思わなくなった。
どんな人にも生きる権利と意味がある。
それぞれの命は尊いのだから。

誤解しないでほしいが、自分がしていた過去があるからと言って「死ね」とか「殺すぞ」という脅し文句を使う人に対して同情的なわけではない。そういう人は嫌いだし、もし今、自分がそんな目に遭ったら、法的手段に訴え出るだろう。自分の安全を守ることが優先だから。

けれども、それを言わなくてはならないほどに傷つき追い詰められているか、その言葉しか知らない環境なのかもしれない、という想像力は働く。
そして、あなたもそこから抜け出せるといいね、と思う。
自分の中にあるもの、だから。

ひとはいつからでも変わることができる。

ではまたね。

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